村上源氏

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テンプレート:Pathnav テンプレート:日本の氏族 村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣


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概要

源氏には祖とする天皇別に二十一の流派(源氏二十一流)があり、村上源氏はそのうちの一つで村上天皇から分かれた氏族である。

致平親王為平親王具平親王の各皇子を祖とする3つの流派がある。その中でも具平親王の子孫が最も栄え、久我家嫡流)や中院家を始めとして10家の堂上家を輩出し、源氏系の公卿では筆頭を占めた。

歴史

村上源氏の中でも最も栄えたのは、具平親王の子・資定王(のち源師房)の流れである。資定王は2歳で父親と死に別れ、である隆姫女王に育てられた。隆姫が後に摂政藤原頼通正室となると、子供のなかった藤原頼通養子縁組をするために資定王を臣籍降下させ、源師房と名を改めた。頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘を嫁がせた上に、頼通に男子が生まれなければ師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。摂関家との強い結びつきは「源氏と雖も、土御門右丞相の子孫は御堂の末葉に入る」[1]といわれた。すなわち師房は、村上源氏にして藤原道長を継ぐ者とされていた。

師房は摂関家を継ぐことはなかったものの、子孫からは多くの大臣を輩出した。源顕房の娘・賢子が産んだ堀河天皇の治世では、「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、未だ此の事あらず」[2]、「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」[3](いずれも『中右記』)とあるように天皇の外戚として隆盛を極めた。源雅実源氏として初めて太政大臣となる。その後、天皇外戚の地位は藤原氏閑院流に奪われて源氏の勢力は後退する。

鎌倉時代源通親九条家に対抗し後白河法皇後鳥羽上皇院政下で活躍し、土御門天皇の外祖父として権勢を振るった。

源通親の子・源通光以降は久我を家名とした。足利義満太政大臣となるまでは清華家である久我堀川土御門中院の4家が交互に源氏長者を世襲したが、室町時代に堀川・土御門両家が断絶[4]し、久我中院両家の世襲となる。

久我家からは大臣家となる中院家やその分家筋である北畠家岩倉家のほか、合計10家の堂上家を輩出した。南北朝北畠親房幕末岩倉具視も村上源氏の支流にあたる。その一方、村上源氏雅兼流と自称した名和氏や、村上源氏季房流と自称した室町時代の守護大名赤松氏(および奥平氏)など、村上源氏の後裔とする武家も多く存在する。

系譜

村上天皇諸皇子系譜


具平親王流(嫡流)系図、中院流諸家略系図
村上源氏の嫡流である中院流は、江戸時代末には堂上公家のうち1清華家・1大臣家・8羽林家(計10家)を占めていた。
系図の詳細については各家項目の系図を参照。


為平親王流系図


主な村上源氏

氏族

人物

著名な村上源氏姓の人物に関しては、村上源氏の人物一覧を参照。

脚注

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関連項目

  • 台記』。
  • 中右記寛治7年(1093年)12月27日条。
  • 『中右記』康和4年(1102年)6月23日条。なお、公卿24人の内訳は源氏12名、藤原氏11名、大江氏1名であり、公卿の数で源氏藤原氏を上回った。なお、源氏は村上源氏が8名、醍醐源氏が3名、宇多源氏が1名、藤原氏は摂関家が2名、花山院流が4名、閑院流が2名、中御門流が2名、小野宮流が1名である。
  • 江戸時代まで堂上家として続いた堀川・土御門家はそれぞれ藤原氏安倍氏の子孫である。