小渕内閣 (第2次改造)

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自自連立政権公明党が加わったことを契機に、内閣総理大臣小渕恵三小渕恵三内閣第1次改造内閣内閣改造して誕生させた内閣である。

2000年(平成12年)4月1日までは自由民主党自由党、および公明党との自自公連立政権であったが、2000年(平成12年)4月1日以後は自由民主党、(2000年(平成12年)4月1日に自由党から分裂して結成された)保守党、および公明党との自公保連立政権となった。

概要

加藤・山崎への冷遇

小渕恵三首相は、1999年(平成11年)の自民党総裁選で無投票当選にこだわるが、加藤紘一山崎拓に立候補されてしまう。

その後に続く内閣改造・党三役人事では、総務会長に加藤派が推挙した小里貞利を拒否、加藤に総裁選辞退を訴えていた政調会長の池田行彦を一本釣りし総務会長に横滑り起用。また加藤のライバルであった元総裁で早稲田出身の河野洋平を外相に起用した。また山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、早稲田大学雄弁会の先輩・深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。

総辞職

小渕恵三は、2000年(平成12年)4月2日、脳梗塞を発症し、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院した(前日から脳梗塞の症状が見られたとされる)。この前日の4月1日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂していた。4月1日午後、小渕は、政権運営がより困難になったこの緊急事態について記者から質問され、10秒前後の不自然な間の後、漸(ようや)く言葉を発することができるといった状態であった。緊急入院前に行なわれたこの記者会見での奇妙な間が、後に脳梗塞の症状であると報道された。そして、この時はたまたま梗塞から回復したために約10秒後に言葉を出すことができたとされる。

小渕は、入院後、執務不能のため内閣官房長官青木幹雄首相臨時代理に指名したとされる。しかし、青木の首相臨時代理就任については「疑惑」がつきまとい続けた。脳梗塞で既に意識を完全に失っていたように思われる小渕自身に果たして首相臨時代理の指名を行うことが出来たであろうかという問題は、必然的に野党・マスメディアに厳しく追及された。にもかかわらず、「疑惑」の張本人である青木自身が記者たちからの「本当は脳死ではなかったのか?」などの異議申し立てを却下する張本人であったため、また、担当医師たちが首相臨時代理指名は不可能だったと思わせる説明を繰り返したため、疑惑は色濃く残ったままとなった。この青木の首相臨時代理への就任劇の不透明さの上に、更に小渕の後任となる新総裁森喜朗の誕生劇に関する不透明さが加わってしまったため、この一連の動きは「五人組による密室談合政治」として世間から大いに批判されることとなった。

また、それまで自民党を支配しているとされた旧経世会系の小渕政権が突然倒れたことにより、福田赳夫内閣以降、総理総裁派閥から遠かった清和会の森に総理総裁の座が転がり込むこととなった。また、同じ清和会の小泉純一郎が森の後継として首相となり長期安定政権を保ちつつ平成研究会(旧経世会)を冷遇し続けたため、旧経世会による自民党支配・政権支配は小渕政権で終わったとされる。

国務大臣等

2000年4月2日、小渕が脳梗塞で緊急入院したため、2000年4月3日以後、内閣官房長官青木幹雄内閣総理大臣臨時代理

政務次官

※1999年(平成11年)9月20日、将来の副大臣制度を見据えた政務次官の権限強化に関する法改正があり、同日以降は「○○総括政務次官」(1省庁に複数置かれる場合は筆頭者のみ)と呼称することとなった。この改正では権限部分のみで官職名までは改められず、閣議での申し合わせという形での「総括」呼称導入であったため、法的根拠を要する任命辞令には「総括」を含まない正式官職名が使用される

関連項目

外部リンク

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