親鸞

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テンプレート:Infobox Buddhist 親鸞(しんらん、1173年 - 1262年)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の浄土真宗の宗祖とされる[注釈 1]

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生涯

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

時代背景

テンプレート:Indent テンプレート:Indent テンプレート:Indent 貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

誕生

承安3年(1173年4月1日[注釈 2][注釈 3]グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[注釈 4])に、現在の法界寺日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進[注釈 5] 日野有範(ありのり)の長男として誕生する[注釈 6]。母は、清和源氏八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ))[1]とされる。幼名は、「松若磨[2]」、「松若丸[3]」、「十八公麿[4]」。 テンプレート:Indent テンプレート:Indent 戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。

得度

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青蓮院(宸殿)
お得度の間

治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、 テンプレート:Indent と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。

叡山修学

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聖光院跡
比叡山延暦寺 西塔
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頂法寺(六角堂)
本堂

出家後は叡山比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。 テンプレート:Indent

六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し[注釈 7]、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 8]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、 テンプレート:Indent テンプレート:Indent という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、 テンプレート:Indent の告を得る。

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵[注釈 9]を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 10]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[5]

入門

法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より、「綽空」(しゃっくう)[注釈 11] の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。

『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西本願寺本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)

元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土方便化身土文類六』)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。

この頃、親鸞より法然に改名を願い出て許される(『顕浄土方便化身土文類六』)。

改名について

「善信」実名説
「綽空」から「善信」(ぜんしん)[注釈 12] への改名説。「親鸞」の名告りはそれ以降とする説。
覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。
「善信」房号説
宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』(教文館、1988年)において主張し、真宗学者の本多弘之らが支持する説[6]
「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説[7]。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。
「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。
また厳密には「善信」房号説と「親鸞」改名説に分かれる。本多は当初「善信」は房号で、「親鸞」への改名は越後流罪赦免後と講じている(『新講教行信証:総序の巻』「第一講」〈1999年7月18日〉、23ページ)。しかし、同書の付記「出会いと名のり-「親鸞」の名によせて」において、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改名したとする説に改めている。
唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に、「善信房」の房号が見て取れる。

妻帯

妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。

  • 法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘・玉日と京都で結婚したという説。
  • 法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族・三善為教の娘・恵信尼京都で結婚したという説。
  • 越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚したとする説。
  • 京都在所時に、玉日と結婚後に、越後に配流され、なんらかの理由で、恵信尼と越後で再婚したとする説。
    • 再婚ではなく、玉日と恵信尼は同一人物とする説。

当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[8]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説[注釈 13]、善鸞を長男とする説もある。

師弟配流

テンプレート:Indent テンプレート:Indent 建永2年[注釈 14](1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ[注釈 15][注釈 16]、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる[注釈 17]

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[注釈 18] と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)

承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて[注釈 19]勅免[注釈 20]宣旨順徳天皇より下る。 テンプレート:Indent 親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に[注釈 21]に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。 テンプレート:Indent 親鸞は、師との再会がもはや叶わないと知ったことと、子供が幼かったこともあり、京都に帰らず越後にとどまった。

東国布教

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小島の草庵跡
史跡
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稲田の草庵跡
西念寺本堂

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[注釈 22]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。

そして笠間郡稲田郷[注釈 23]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[注釈 24]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。 テンプレート:Indent テンプレート:Indent

帰京

62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。

帰京の理由
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
  • 天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。
弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
  • 主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。
鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。
  • 東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都[注釈 25]の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。
現代と比較して、機械的伝達手段[注釈 26]が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度[注釈 27]が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。
  • 望郷の念によるもの。
35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
  • 著作活動に専念するため。
当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
妻・恵信尼の動向
確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
  • 東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)
  • 京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。
当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
  • 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。
また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。
承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる

寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。

建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 28]を撰述する。

建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。

同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。 テンプレート:Indent

康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。 テンプレート:Indent テンプレート:Indent

入滅

弘長2年(1262年11月28日グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 29] )、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有が院主の坊)[注釈 30] にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。 流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。 テンプレート:Indent

荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[注釈 31]に葬したてまつる」と記されている。

頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。

本願寺の成立

文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より「吉水の北の辺[注釈 32]」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)

元応3年(1321年)、「大谷廟堂」は本願寺第三世 覚如により寺院化され、「本願寺[注釈 33]」と号し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。) テンプレート:Indent

人物

浄土真宗の祖師親鸞は、承安3年(1173年)に当時中級貴族であった日野有範の子として生まれた。治承5年(1181年)、9歳のときに出家して、延暦寺の青蓮院慈円の門下にはいり、堂僧をつとめた[9]

法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[10]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

村田勤は『史的批評・親鸞真伝』において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱する。続いて東京帝国大学教授の田中義成國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表する[11]。しかし大正10年(1921年)に、西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状『恵信尼消息』10通が発見され、その内容と親鸞の動向が合致したため、実在したことが証明されている。

明治9年(1876年)11月28日に明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈されている。西本願寺東本願寺専修寺の御影堂の宗祖親鸞の木像の前にある額の「見真」はこの諡号に基づく。

依拠聖典

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根本経典

根本経典
親鸞は、「浄土三部経」と総称される『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。
特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。

七高僧論釈章疏

親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。

龍樹 - インドインドの仏教
十住毘婆沙論』「易行品」
「十二礼」
天親 - インド
無量寿経優婆提舎願生偈』(『無量寿経優婆提舎』、『浄土論』、『往生論』)
曇鸞 - 中国中国の仏教
無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』、『往生論註』)
『讃阿弥陀佛偈』
道綽 - 中国
安楽集
善導 - 中国
観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)[注釈 34]
『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)
『法事讃』[注釈 35]
『般舟讃』[注釈 36]
『観念法門』[注釈 37]
源信 - 日本日本の仏教
往生要集
源空法然) - 日本
選択本願念佛集』(『選択集』)

その他

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聖徳太子
「和国の教主[注釈 38]」として尊敬し、観音菩薩の化身として崇拝した。
十七条憲法

教え

 親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐のである『大無量寿経[注釈 39]が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した。    親鸞の教えの救済対象は、一番が苦悩者で二番が悪人である。『浄土文類聚鈔』(『聖典』本派p477、大派p402頁。)の巻頭で「苦を滅し、楽を証す」というから、苦悩者が一番の救済相手となる。しかも、「苦を滅し]と現世利益的表現となっている。親鸞教学の全容といえば、『行巻』の「一乗海釈」(『聖典』本派p195頁、大派p196。)と『化巻』の「三願転入」(『聖典』本派p413頁、大派p356。)といえる。「一乗誨釈」の入門は、一番に「雑修・雑善の川水」という。「雑修」とは、「念仏で現世利益を祈る人」(『善導和讃』)の意味だから、一般の宗教と同じく幸せを祈る人が入門者である。「三願転入」も入門が第一九願の自力の行者であるから、念仏に幸せを祈る人が真宗の入門者といえる。

 如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」を称えると、大乗仏教の基本理念である「自利・利他円満の行」を実行したことになる。だから、念仏でどのような苦しみ(無明)も解決し、一切の願い(志願)が満たされるという。『行巻』には「大行とは無碍光如来の名を称するなり。この行はすなわちこれ諸々の善法を摂し、諸々の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。」(『真宗聖典』、本派p141、大派p157。参照『東方』20号、p105、東方仏教学院発行。『親鸞念仏の可能性』入井善樹著、国書刊行会発行)という。『浄土文類聚鈔』にも「行とは、利他円満の大行なり。」(『真宗聖典』、本派p478頁、大派p403。)と、念仏行は「自利利他円満の行」という。すると、『行巻』の初めに、「極速円満す」とは声の念仏によって音速で、人に名号の功徳を届けたから自利利他円満する「行」の意味となる。大乗仏教では、利他行をしなければ、幸せにもブッダにもなることができないのだ。アミダ仏は、アミダ仏の持てるすべての価値・功徳を名号に備わるようにと願って修行した。だから、四八願中、第二〇・三四・三五・三六・三七・四一・四二・四三・四四・四五・四七・四八願の十二種類の願に、「わが名字を聞いた者は○○○○を得る」と誓われる。アミダ仏の名を聞いたら、多くの功徳を受けるので「利他行」となる。

 念仏を称えると臨終をまたずにただちに、信心が浄土往生し成仏する。『唯信鈔文意』には、「横超の信心」が説明され、「この一心は、横超の信心なり。横は、よこさまという。超は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海をこえて、仏果にいたるがゆえに、超ともうすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は、仏にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、則ち衆生をして生死の大海をわたしこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。」(『真宗聖典』本派p711頁、大派p555。参照『ふかまる横超』入井善樹著、国書刊行会発行)という。信心は「とく生死海を超え」て浄土往生したという。「仏果にいたるがゆえに超という」から、現生成仏完了である。このブッダになった信心が「本願の三信心」というから、第十八願の信心はブッダ完了なのだ。決して、「身」の事例ではないと銘記する。この真実信心を天親菩薩が、「願作仏心は度衆生心」といい、「度衆生心」は還相して苦悩者のために利他行する心(大菩提心)となるから、社会貢献する信心となって実働する心が構築された。そして、「本願の三信心」は「仏性なり、如来なり」と成仏完了した信心だと教える。親鸞は第十八願の信心を「念仏往生の願」と名づけた。『信巻』の最初の説明は「大信心段」(『聖典』本派p211、大派p211。)である。「大信心は仏性なり如来なり」(『信巻』、『聖典』本派p236、大派p229。)と『涅槃経』を引用して説明されるから、間違いなく第十八願は成仏完了の信心を説明している。このブッダとなった信心(深信)によって、凡夫がブッダになるという大乗仏教への実証となる。この信心に対し、「わが身」(肉体)が浄土往生したのではないから、身の煩悩が抵抗する。そのときに「私は悪人」という、宗教的自覚が自然に生まれる。でも、念仏が利他行だから、どんな悪人も救われて行くという教えを、「大乗中の大乗」と教えるのが、親鸞の全容である。

このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々[凡夫]のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する(なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。[12])。[13]

教義に関しては、各派により解釈などが異なるため下記のリンク先を参照の事。

真宗各派における教義に関して
教義・教学の項目について

著書

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親鸞筆「三帖和讃」(専修寺蔵)[14]
漢文
  • 正信念仏偈」は、『教行信証』の「行巻」の末尾にある、七言百二十句からなる偈文。
和文
  • 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。国宝[15]
関連書籍

親鸞を主題とした芸術作品

歴史小説

親鸞を描いた歴史小説

映画

オペラ

脚注

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注釈

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参照

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出典

参考文献

関連項目

  • 親鸞賞 (親鸞を記念した文学賞)

外部リンク

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先代:
浄土宗・開祖
浄土真宗・元祖

法然
浄土真宗
宗祖
次代:
本願寺
浄土真宗本願寺派
真宗大谷派
浄土真宗東本願寺派
錦織寺
真宗木辺派
如信

専修寺
真宗高田派
佛光寺
真宗佛光寺派
真宗興正派
真仏

毫摂寺
真宗出雲路派
證誠寺
真宗山元派
善鸞

誠照寺(真照寺)
真宗誠照寺派
道性(益方入道)

専照寺
真宗三門徒派
如導

浄興寺
真宗浄興寺派
善性

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  1. 参考文献…真宗聖典編纂委員会 編『真宗聖典』真宗大谷派宗務所出版部、1978年、ISBN 4-8341-0070-7。
  2. 参考文献…高松信英・野田晋 著 『親鸞聖人伝絵 -御伝鈔に学ぶ-』 真宗大谷派宗務所出版部、1987年刊行、ISBN 978-4-8341-0164-5。
  3. 参考文献…瓜生津隆真・細川行信 編 『真宗小事典』 法藏館、2000年新装版、ISBN 4-8318-7067-6。
  4. 参考文献…佐々木月樵編『親鸞伝叢書』P.19『親鸞聖人正明傳』巻一上・『高田開山親鸞聖人正統傳』巻之一P126より。
  5. 出典…「恵信尼消息」。
  6. 「善信」房号説を支持する学者は、本多弘之の他に寺川俊昭(「親鸞の名をめぐって」『真宗』2010年11月号、真宗大谷派出版部)・豅弘信(「「善信」実名説を問う(上)」・「「善信」実名説を問う(下)」)など。
  7. 知識ゼロからの親鸞入門』41頁より。
  8. 参考文献…『本願寺系圖』(大阪本願寺本)
  9. 松尾(1995)p.33
  10. 『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。
  11. 千葉乗隆『浄土真宗』ナツメ社、P.216「親鸞の存在についての論争」。
  12. 『浄土真宗聖典』オンライン検索 を参照
  13. 『岩波仏教辞典』(第二版)P541「浄土真宗」の項、および『真宗小事典』P92「浄土真宗」の項を参考文献として用いる。
  14. 「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。
  15. テンプレート:国指定文化財等データベース