専修寺

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専修寺(せんじゅじ)は、真宗教団連合を構成する浄土真宗10派のうちのひとつの真宗高田派寺院。山号は「高田山」。本山は三重県津市一身田町に、本寺は栃木県真岡市高田にあり、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づく。応長2年(1312年)に同じ浄土真宗の寺院である大谷廟堂(後の本願寺)が「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去している。また、三門徒派専照寺も建立当初は「専修寺」と号していた。[1]

本寺専修寺

テンプレート:Mapplot 浄土真宗の開祖親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城大内氏の懇願により建てられた寺院と伝えられる。1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」とののお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。その際、善光寺の本尊である秘仏を模造した一光三尊仏を本尊に迎え安置、親鸞門弟の中のリーダーであった真仏が管理に当たっていたものと推定されている。

建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である。

真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。

その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになっていた。そんな中で、同じ浄土真宗である仏光寺派教団が京都を中心に発展する。親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を覚如が寺格化した「本願寺」も、一旦は衰退するものの15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団として次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった。

本寺専修寺は戦国時代に兵火によって炎上し一時荒廃したが、江戸時代に入って再建されており本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている。

文化財

史跡

  • 1967年(昭和42年)7月6日、境内が国の史跡に指定された。指定名称は「専修寺境内」(せんじゅじけいだい)である。

重要文化財

  • 御影堂
    寛文6年(1666年)に上棟。
    間口42.73m、奥行33.50m、725畳敷きであり、重要文化財の木造建築中5番目の大きさ。
  • 如来堂
  • 楼門
  • 総門
  • 木造顕智坐像(附:木造真仏坐像)

本山専修寺

テンプレート:日本の寺院 現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、1469 - 1487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。阿弥陀如来立像を本尊とする。本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。その集落は現在もはっきり見分けることができる。地元では「高田本山」と呼ばれている。

文化財

国宝

  • 西方指南抄 6冊 親鸞筆 附:覚信等直門弟写本 6冊
  • 三帖和讃 親鸞筆 3冊

重要文化財

建造物
  • 御影堂
  • 如来堂
  • 山門
  • 唐門
  • 通天橋
  • 御廟拝堂
  • 御廟唐門及び透塀(附:骨堂)
  • 鐘楼
  • 茶所(進納所)
  • 太鼓門
  • 大玄関
  • 対面所
  • 賜春館
美術工芸品
  • 木造阿弥陀如来立像 伝・快慶作
  • 紙本著色善信上人絵詞伝 5巻 永仁3年
  • 絹本著色阿弥陀三尊像(1904年重文指定)鎌倉時代
  • 絹本著色阿弥陀三尊像(1913年重文指定)高麗時代
  • 紙本淡彩歌仙像(伊勢・中務・小大君) 3幅 鎌倉時代
  • 観無量寿経 後柏原天皇宸翰 1冊 附:尊盛添文1通
  • 後陽成天皇宸翰消息(伏見殿宛)
  • 水鏡 上・中・下 3帖 鎌倉時代
  • 唯信鈔 聖覚作 親鸞筆(寛喜2年・1230年)・唯信鈔文意 親鸞筆(康元2年・1257年)・唯信鈔文意 親鸞筆(康元2年)
  • 親鸞上人消息 10巻
  • 教行信証(高田本) 6冊
  • 見聞集 2冊 親鸞筆・大般涅槃経要文 1冊 親鸞筆
  • 尊号真像銘文 2冊 親鸞筆 正嘉2年(1258年)
  • 慈円自筆書状(「不可説之夢記」云々)
  • 専修寺聖教(しょうぎょう)82点
  • 専修寺文書(306通)11巻、1幅、7帖、284通

特記事項

真宗高田派専修寺(およびその末寺)では他の真宗教団と異なり歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。
これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。
なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは西本願寺よりも多い数である。

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • 真宗三門徒派 専照寺