善光寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:日本の寺院 テンプレート:Mapplot 善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院である。山号は「定額山」(じょうがくさん)。

山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。2014年平成26年)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。

善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。

概要

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済(女人救済)があげられる。

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[1]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏のご本尊の分身として公開される。

また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

伽藍

  • 本堂(金堂)
    建物は「撞木造り」と呼ばれる屋根を持っている。これは入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造である。多くの寺社のように本尊が正面になく、向かってやや左側の瑠璃段に安置される。正面には「御三卿」つまり、中央に善光寺開山の祖とされる本田善光卿像、向かって右に善光の妻弥生御前像、左は息子の善佐卿像が安置される。
  • 山門
  • 経蔵
  • 日本忠霊殿・善光寺史料館 - 日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
  • 仁王門
  • 鐘楼梵鐘
  • 雲上殿
  • 大勧進
  • 大本願
  • 釈迦堂
  • 宝物館
  • ぬれ仏(延命地蔵尊)
    享保7年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
  • 六地蔵
  • 爪彫如来

文化財

国宝

  • 本堂(附:厨子1基)
    現本堂は宝永4年(1707年)の再建。高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルで、国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいといわれている。の樹皮を用いて施工する檜皮葺(ひわだぶき)、撞木造りの屋根が特徴である。善光寺本堂は1953年(昭和28年)3月、国宝に指定された。本堂では床下の真っ暗な通路を通り、本尊の阿弥陀如来が安置されている「瑠璃壇」という小部屋の真下にあるとされる「極楽浄土への錠前」に触れる「戒壇巡り」が500円で入場券を購入し阿弥陀如来へ祈祷後に体験できる。

重要文化財

  • 三門(山門)
    寛延3年(1750年)に完成した。平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。平成の修復を記念して、平成20年4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開が行なわれた。内部には、四国八十八箇所の各寺院の本尊の代像が安置されている。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。
  • 経蔵
  • 金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
  • 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願所有)
  • 善光寺造営図 1巻
  • 源氏物語事書(大勧進所有)

重要美術品

  • 梵鐘 - 寛永9年(1632年)銘
  • 銅造地蔵菩薩坐像(通称:濡仏)享保7年(1722年)銘

史跡(市指定)

  • 善光寺参道(敷石)
    1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。

建造物(市指定)

  • 石造宝篋印塔
    山門を通り、左手(西)の方角に二基ある。

その他

  • 算額 天保3年(1832)3月 吉田玄魁堂門人田原小野右衛門忠継他5名奉納
  • 算額 天保4年(1833)仲秋 武内担度道門人山下喜総太宣満他4名奉納

行事

年間行事

  • 1月1日 朝拝式(ちょうはいしき) 善光寺の全僧侶により行われる、新年最初の法要。
  • 1月1日〜3日 修正会(しゅしょうえ) 正月三が日の間に行われる、国家平安を祈る儀式。
  • 1月6日 びんずる廻し(びんずるまわし) 妻戸台の周りをびんずる尊者像と参拝者が廻る行事。
  • 1月7日 七草会(ななくさえ) 朝拝式・修正会に御印文加持・御印文頂戴などが組み合わされた法会。
  • 1月7日〜15日 御印文頂戴(ごいんもんちょうだい)善光寺如来の分身といわれる三判の宝印「御印文」を、僧侶が参詣者の頭に押し当てる儀式
  • 1月15日 お焚き上げ(おたきあげ) 正月飾りや書き初め、旧年中のお札や達磨などを読経とともに焚き上げる。
  • 1月25日 法然上人御忌(ほうねんしょうにんぎょき) 浄土宗の宗祖、法然上人の忌日法会。
  • 2月3日 節分会(せつぶんえ)
  • 3月15日 御会式(おえしき) 本尊・善光寺如来が遷座されたことを記念して行われる法会。
  • 春彼岸の入り、中日、明け 彼岸会(ひがんえ)
  • 4月8日 針供養(はりくよう)
  • 5月4日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ)春の法会は日本天台宗宗祖伝教大師最澄の忌日に行われる。
  • 6月30日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
  • 7月13日 開山忌(かいざんき) 善光寺の開山、本田善光の忌日法要。
  • 7月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
  • 7月31日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
  • 8月15日 施餓鬼会(せがきえ) 7月と8月の2回執行され、お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
  • 8月23日 地蔵盆(じぞうぼん) ぬれ仏、六地蔵、仲見世の延命地蔵など、境内各所の地蔵尊を巡回し、子どもの健全育成を祈願。
  • 秋彼岸の入り、中日、明け 彼岸会
  • 10月5日〜14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を御本尊様の前に遷座し、開扉して供養を行う。
  • 10月15日 御会式(おえしき)本尊・善光寺如来が日本に渡ったことを記念し行われる。
  • 11月5日〜14日 十夜会(じゅうやえ) 10月と11月の2回執行され、普段非公開の「十夜仏」を御本尊様の前に遷座し、開扉して供養を行う。
  • 11月24日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ) 春と秋の2回執行され、秋の法会は中国の天台智者大師智の忌日。
  • 12月1日 お注連はり(おしめはり) 自坊の門に注連縄をはり、正月行事の始まりを告げる。
  • 12月7日〜9日 貴々念仏(とうとうねんぶつ) 一定の期間を定めて念仏を唱える「別時念仏」の法要。
  • 12月第2申の日 (非公開行事)御越年式(ごえつねんしき) 本尊・善光寺如来の年越しの儀式。
  • 12月21日 (非公開行事)おそなえつき 正月飾り用の餅つき行事。
  • 12月28日 お煤払い(おすすはらい) 年に一度の本堂の大掃除。

開帳

開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京都、大阪で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた[2]。明治時代以降から2009年まで「御開帳」と呼ばれるものは、全て居開帳であったが2013年には両国回向院にて「出開帳」が開催された[3]

正式名は、善光寺前立本尊御開帳。7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度の丑年未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ。

回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年のが使用された。

期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色ので結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏様である釈迦如来と来世の仏様である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。

御開帳の歴史

居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ寺の都合により開催されていた。

  • 1730年:享保15年旧暦4月10日〜16日 - 常念仏二万日
  • 1742年:寛保2年旧暦1月29日〜旧暦3月14日 - 三都開帳終了
  • 1745年:延享2年旧暦3月15日〜旧暦5月15日 - 本堂修理完成
  • 1759年:宝暦3年旧暦3月15日〜旧暦4月15日 - 経蔵落慶は旧暦3月14日
  • 1762年:宝暦12年旧暦4月15日〜旧暦5月14日 - 常念仏三万日
  • 1773年:安永2年旧暦3月25日〜4月29日 - 常念仏三万五千日
  • 1785年:天明5年旧暦3月15日〜旧暦4月15日 - 常念仏四万日
  • 1791年:寛政3年旧暦3月10日〜旧暦4月30日 - 諸堂修復完成/本堂・三門・経歳・仁王門修復
  • 1799年:寛政11年旧暦3月1日〜旧暦4月30日 - 常念仏三万五千日/回国開帳終了
  • 1804年:文化元年旧暦3月10日〜旧暦4月29日 - 出開帳終了
  • 1811年:文化8年閏2月25日〜旧暦4月15日 - 常念仏五万日/出開帳終了
  • 1821年:文政4年旧暦3月1日〜旧暦4月29日 - 常念仏五万五千日
  • 1832年:天保3年旧暦3月10日〜旧暦4月29日 - 常念仏六万日/本堂屋根修復落慶
  • 1840年:天保11年旧暦3月10日〜旧暦4月29日 - 本堂屋根修復
  • 1847年:弘化4年旧暦3月9日〜旧暦4月29日 - 常念仏六万五千日、旧暦3月24日に大地震で中止。
  • 1865年:元治2年旧暦2月7日〜旧暦3月8日 - 仁王門落慶開帳(江戸時代最後)

明治以降は、居開帳がほぼ7年に一度行われている(ただし1942年は戦時中のため開帳せず)。

  • 1872年:明治5年旧暦3月1日〜旧暦4月20日 本堂屋根葺替工事始
  • 1877年:明治10年4/10〜5/29 - この年以降開帳の日付がグレゴリオ暦準拠のものとなる。
  • 1882年:明治15年4/10〜5/29 - 以降太平洋戦争前までの御開帳は午と子の年、50日間の開催が慣例となる。
  • 1888年:明治21年4/10〜5/29
  • 1894年:明治27年4/10〜5/29
  • 1900年:明治33年4/1〜5/20
  • 1906年:明治39年4/1〜5/20
  • 1912年:明治45年4/1〜5/20
  • 1918年:大正7年4/1〜5/20
  • 1924年:大正13年4/1〜5/20
  • 1931年:昭和6年4/1〜5/20
  • 1936年:昭和11年3/20〜5/20
  • 1949年:昭和24年4/1〜5/31 - 雲上殿落慶
  • 1951年:昭和26年4/20〜5/24 - 善光寺如来渡来千四百年
  • 1955年:昭和30年4/10〜5/20 - 丑年と未年開催が慣例となる。
  • 1961年:昭和36年4/1〜5/21
  • 1967年:昭和42年4/10〜5/20
  • 1973年:昭和48年4/8〜5/20
  • 1979年:昭和54年4/8〜5/27
  • 1985年:昭和60年4/7〜5/26
  • 1991年:平成3年4/7〜5/26
  • 1997年:平成9年4/6〜5/31
  • 2003年:平成15年4/6〜5/31 - 同時期に甲府市善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、稲沢市善光寺東海別院の四善光寺同時開帳もあり、628万人が訪れた。
  • 2009年:平成21年4/5〜5/31 - 6年前の四善光寺に加え、岐阜市岐阜善光寺関市関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となり、過去最高の673万人が訪れた。
  • 2013年:4/27〜5/19日 東日本大震災復幸支縁を目的に両国回向院にて「出開帳」開催[3]

歴史

白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、欽明天皇の時代552年百済聖王(聖明王)から献呈されたものとされ、紆余曲折を経て推古天皇の命により本田(本多)善光の手で初め飯田市に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。「善光寺」の名はこの本田善光の名から付けられたと伝えられ、また初めに遷座したとされる場所には元善光寺が現在も残っている。

善光寺に関する縁起については、院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている[4]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている[5]

治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった[6]。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。

鎌倉幕府の崩壊後は新政権側と反対勢力に地元豪族達が中先代の乱観応の擾乱などの戦乱において、南北朝に二分して対立し、大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなどの争いが続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。

特に戦国時代の、善光寺平信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。一説には、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊は高梨氏によって越後国直江津(現在の上越市)に移され、その寺跡には十念寺(浜善光寺)が大本願別院として法燈を伝えていると言う。

本尊は武田氏織田信長に滅ぼされると、織田信長の手で岐阜へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間大本願の尼衆は本尊に付き従って移動し、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。

江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった[7][8]

鎌倉時代から本尊が秘仏であることは知られていたが、繰り返された火災に土に埋められて難を逃れたこともあったが首を残して損傷し再鋳造されたとも伝えられる。また江戸時代に偽仏が出回ったとの事から幕府が元禄5年秘仏を検分する使者を差し向け、寸法などを実測記録したとされてもいる。

年表

  • 三国渡来の秘仏である一光三尊阿弥陀如来像が天竺から百済を経て、欽明天皇13年(552年)に日本へ伝えられたとされている[1]
  • 皇極天皇元年(642年) - 本尊が現在の地に遷座。
  • 皇極天皇3年(644年) - 本堂創建。
  • 白雉5年(654年) - 本尊が秘仏とされる。
    以上の縁起伝説が平安時代後期になってから扶桑略記や伊呂波字類抄などに示された。なお10世紀中ごろ「僧妙達蘇生注記」に「水内郡善光寺」と見え、また園城寺(現在の三井寺)の荘園末寺としての存在で文献には登場する。
  • 永久2年(1114年) - 信濃国善光寺別当の従者らが京都法勝寺四至内で濫行を働く。
  • 治承3年(1179年) - 焼失。
  • 文治3年(1187年) - 源頼朝が信濃国の御家人に再興を命じる。
  • 承元4年(1210年) - 善光寺地頭職であった長沼宗政が園城寺の請により更迭。
  • 嘉禎3年(1237年) - 五重塔完成。
  • 文永2年(1265年) - 在地の有力者に任されていた善光寺近辺警護の奉行人制度が廃止。それまでの和田、窪寺、原、諏訪部の4氏が解任され鎌倉幕府が直接統制に乗り出す。
  • 文永5年(1268年) - 須坂の豪族井上盛長によって焼き払われ、盛長は誅殺された。
  • 正安3年(1299年) - 鎌倉八幡宮との結合強化が図られた。
  • 応安3年(1369年) - 戦火で焼失。この時本尊は土中に埋められて難を逃れた。
  • 応永34年(1427年) - 焼失。本尊を横山(現在の城山)に遷座。
  • 応仁3年(1468年) - 善光寺の住職、善峰が対馬宗貞国を通じて李氏朝鮮と交渉。
  • 文明9年(1477年) - 焼失。前立本尊が破損(首を残して焼失したため再鋳)。
  • 文明16年(1484年) - 焼失。前立本尊に損傷。
  • 明応4年(1495年) - 北信濃支配勢力者の村上政清高梨政盛、澄頼とが善光寺を巡って争い焼失。高梨氏が本尊を本拠地に持ち去る。
  • 天文24年(1555年) - 武田信玄により、善光寺ごと甲府に移動(武田家滅亡後、本尊は一時京都方広寺の本尊となる)。
  • 慶長3年(1598年) - 豊臣秀吉により、本尊が善光寺に還る。
  • 寛永19年(1642年) - 本堂焼失。
  • 慶安3年(1650年) - 本堂(仮堂)完成。
  • 寛文6年(1666年) - 本堂完成。
  • 元禄5年(1692年) - 秘仏の本尊を検分する使者が幕府から派遣され実測された。
  • 宝永4年(1707年) - テンプレート:要出典範囲。現在に至る。この造営が創建以来12回目と伝えられている。
  • 寛延3年(1750年) - 香雲により山門完成。
  • 宝暦9年(1759年) - 経蔵完成。
  • 天明4年(1784年)2月、等順が落語にもなった融通念仏血脈譜(お血脈[9]を新たに簡略化して作成、参拝者へ配布を始める。
    7月、善光寺本堂にて浅間山大噴火の追善大法要を執行。[10]
  • 寛政10年(1798年) - 4年にあたる全国回国開帳から等順が帰着。[11]
  • 弘化4年(1847年)5月8日 - 善光寺地震により被害を受け[12]、仁王門など焼失。本堂、山門、経蔵は焼失を免れる。
  • 元治元年(1864年) - 仁王門再建。
  • 昭和28年(1953年) - 本堂が国宝に指定。
  • 昭和40年(1965年) - 山門と経蔵が重要文化財に指定。
  • 昭和54年(1979年) - 火災により奥書院などが焼失。

善光寺にまつわる事柄

慣用語

  • 「遠くとも一度は詣れ善光寺」
  • 「牛に引かれて善光寺参り」 - 布引観音を発祥地とする伝説が有名だが、市内仏導寺付近の戦国時代末の実話とも伝えられる。
  • 「堪忍信濃の善光寺」 おそれ入谷の鬼子母神などと同様、「堪忍しなさい」に掛けた言葉遊び。
  • 胴上げ」の発祥は長野市善光寺とする説がある。善光寺において、12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」で、仕切り役を胴上げする習慣がある。この行事は江戸時代初期には記録があり、少なくともそのころから胴上げが成されていたことは確かである[14]。『ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる』と書かれている。

善光寺町

現在の長野市は、善光寺の門前町を起源として発展した都市で、古くから長野盆地を「善光寺平」とも称していた。

元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年(慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに善光寺領とされた。

善光寺門前の参道は北国街道のルートともされ、門前町は同時に宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現長野市大字南長野)、権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。

善光寺町は、北国街道のルートとされた善光寺南側参道を中心に形成された門前町・宿場町であり、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。

さらに、隣接する松代藩および幕府領の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。

前述の通り、善光寺町(善光寺宿)とは門前町・宿場町を構成する各町の総称であり、検地帳上の公的な村名は長野村(または妻科村、権堂村)であった。それは明治維新後の水内郡長野村あるいは妻科村権堂村を経て現在の長野市につながっている。言い換えると、「善光寺町」とは本来「長野村の一部」を総称する地名であり、「長野」の旧称が「善光寺」であったわけではない。

善光寺町内の各町は、明治以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したもの(旭町県町南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村1881年{明治14年}に南長野町)、鶴賀村1885年{明治18年}に鶴賀町)内の通称地名として、さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町1897年{明治30年}に長野市)の大字長野、大字南長野、大字鶴賀内の通称地名として現在も使用されている。

オリンピックとの関わり

1998年冬季五輪

1998年冬季オリンピックでは、開会式に善光寺の鐘楼の鐘の合図で始まり、続いてパラリンピックも開催された。

2008年夏季五輪聖火リレー

テンプレート:See also 2008年(平成20年)のチベット騒乱を受けて、善光寺は同じ仏教徒としての反対の意味とそれに伴う参拝客への危害が及ぶなどの混乱回避を理由に、当初予定していた北京オリンピックの聖火リレーの出発式会場に善光寺境内の不使用を長野市に求めた[15]。2008年4月18日には、善光寺は出発式会場から辞退を表明した[16][17] 上、聖火リレーの時間に合わせてチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を実施した。同年11月、出発式会場辞退への感謝の印として、ダライ・ラマ14世より釈迦像が贈られた[18]。この像は、翌2009年3月から、忠霊殿で一般公開されている[18]

4月20日に本堂回廊にスプレー塗料による落書きが発見された。出発式会場変更と関係しているかは不明だが、長野県警察建造物損壊文化財保護法違反容疑で捜査している。

ながの花フェスタ 善光寺花回廊

毎年4月下旬から5月上旬のゴールデンウェークに行われる、長野駅から善光寺までの街角を花で彩るイベント。

主にヨーロッパで行われる「インフィオラータ」(イタリア語で「花を敷き詰める」)を、当時の田中康夫県知事の発案で2002年に行ったのが始まり。その後、予算不足や田中康夫前知事への批判などがあり、名称や規模・手法を変えながら現在も継続している。善光寺自体は参画していないが、参道がメイン会場となることから「善光寺花回廊」との名称になった。

長野灯明まつり

長野オリンピックのメモリアルイベントとして2003年に行われた「善光寺ゆめ常夜灯」を元に、翌2004年から始まったイベント。例年2月上旬から中旬にかけて行われる。

イベントのメインとなるのが、国際的な照明デザイナー石井幹子氏が企画した「善光寺五色のライトアップ」と善光寺参道で行われる「ゆめ灯り(あかり)絵展」である。

第十回の記念すべき2012年は長野県を代表する画家である中島千波小松美羽が巨大灯籠を制作展示した。

アクセス

長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。

拝観について

  • 9〜16時 本堂内陣・戒壇めぐり・経蔵・史料館共通500円

出典・脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

  • 1.0 1.1 重要文化財 善光寺如来縁起絵 文化遺産オンライン、文化庁 2013年11月
  • 元禄の善光寺御開帳
  • 3.0 3.1 善光寺出開帳両国回向院 両国回向院 2013年5月20日 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "ekoin.or.jpshien.2Fshien1"が異なる内容で複数回定義されています
  • 田島公「〈東国の荷前〉(〈東国の調〉)と〈科野屯倉〉-十巻本『伊呂波字類抄』所引〈善光寺古縁起〉の再検討を通じて―」(所収:吉村武彦 編『律令制国家と古代社会』(塙書房、2005年) ISBN 978-4-8273-1196-9))
  • 『長野市の埋蔵文化財第121集 長野遺跡群 元善町遺跡 善光寺門前町跡(2)』 長野市教育委員会編 2008年3月
  • 牛山佳幸「中世武士社会と善光寺信仰 –鎌倉期を中心に-」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』(東京堂出版、1999年) ISBN 978-4-490-20375-2)
  • 第3展示室内部「ひとともののながれ」解説文 国立歴史民俗博物館
  • 東海道を利用して庶民がお伊勢参りする場合にどの程度の費用が必要だったのでしょうか 国土交通省・関東地方整備局
  • 奥村隆彦『融通念仏信仰とあの世』岩田書院、2002年
  • 『朝日ビジュアルシリーズ 仏教新発見「善光寺」』 朝日新聞社、2007年
  • 宮島潤子『信濃の聖と木食行者』第2章、第3章(角川書店)、1983年
  • 善光寺本堂に残る地震の痕
  • 公式サイト 「善光寺について」、信州大学工学部情報工学科基礎研究室 善光寺の歴史 を参照。
  • 善光寺鏡善坊の行事解説
  • NHKテンプレート:リンク切れ
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • 18.0 18.1 テンプレート:Cite news