頂法寺

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テンプレート:日本の寺院 頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区にある天台宗単立の仏教寺院山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。西国三十三所第十八番札所。正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道池坊の発祥の地としても知られる。

歴史

頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。[1]

敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。

元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという[2]

以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている[3][4]。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷(清水寺石山寺長谷寺)などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる[5]

鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然専修念仏に帰依したとされる。

室町時代寛正2年(1461年山城大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿に命じて、洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。

近世には、「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内に多聞院、不動院、住心院、愛染院などがあったが現存しない。観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。

天治2年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、明治10年(1877年)に再建されたものである。

池坊

この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭で、頂法寺の本坊にあたる池坊が執行として代々経営・管理に当たってきた。聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれている[6]。ただし、前述の縁起類には、聖徳太子が沐浴した池にちなんで寺坊を「池坊」と号したことと、小野妹子を寺主としたことは述べられているが、妹子と華道の関係については述べていない。小野妹子を華道の道祖とするのは、史料で知られる限りでは近世以降のことである[7]

池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていたことが15世紀の記録に残されている。文明年間(1469年-1486年)に池坊12世専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じ、天文年間(1532年-1555年)には、池坊13世専応が度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を表して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化した。

境内

京都の街中に建つ寺で、境内は狭い。山門を入ってすぐ正面に本堂、右手に「へそ石」、親鸞堂、納経所、本堂裏には聖徳太子沐浴の伝説にちなむ池や太子堂がある。鐘楼は山門から公道を隔てて向かい側の飛地境内にある。また、境内北側には、華道家元「池坊」の本部ビル(11階建て)がある。

本堂

平面六角形の屋根を二重に重ね、手前には入母屋造、千鳥破風付きの礼堂を設ける、複雑な屋根構成になる。明治10年(1877年)の建立。内陣には秘仏本尊如意輪観音像を安置し、向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、右に不動明王立像を安置する。原則として、参拝者は堂内に立ち入ることはできず、堂外からの参拝となる。

太子堂

本堂背後の人工池に面して建つ、平面六角形、朱塗りの小堂。南無仏太子像(聖徳太子2歳像)を安置する。

親鸞堂

境内右手奥に建つ六角堂。夢告を授かる姿の「夢想之像」と六角堂参篭の姿を自刻したとされる「草鞋の御影」の2体の親鸞像が安置される。また、親鸞堂の正面には、参籠から叡山に戻る姿の親鸞の銅像が立つ。

へそ石

本堂東側、柵で囲われた中に平面六角形の平らな石があり、「へそ石」または「要石(かなめいし)」と呼ばれる。旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在し、位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であるといわれている。石の中央に孔があり、元来は燈籠等の台石であったと思われる。

本尊

六角堂の本尊・如意輪観音像は古来厳重な秘仏とされている。西国三十三所に関する信頼できる史料として最古のものである『寺門高僧記』所収の行尊園城寺の僧)の巡礼記(11世紀末頃)によれば、六角堂の本尊は「金銅三寸」の如意輪観音像とされている。鎌倉時代成立の天台系の仏教図像集である『阿娑縛抄』(あさばしょう)には、六角堂の本尊は、石山寺の本尊と同様の「二臂」の如意輪観音とされている。しかし、秘仏本尊の厨子の手前に安置される「お前立ち像」は六臂像であり、寺の納経所で配布している本尊御影も六臂像である。秘仏本尊は内陣中央の三重の厨子内に安置されており、指定文化財でないため、制作年代等の詳細は不明である。

2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。六角堂本尊の如意輪観音像は2008年11月8日 - 2009年1月5日、及び、2009年3月3日 - 4月12日の2度にわたり開扉されたが、これは前回開扉(1872年)以来136年ぶりの公開であった。

文化財

重要文化財
  • 木造毘沙門天立像 - 平安時代後期。像高102cm。
  • 池坊専好立花図(93図)(著色)自寛永五年至同十二年 附:寛永六年紫宸殿立花御会席割指図(5通)

アクセス

拝観時間

  • 6:00~17:00

御詠歌

わが思う 
心のうちは 
六の角 
ただ円かれと 
祈るなりけり

前後の札所

西国三十三所
17 六波羅蜜寺 -- 18 頂法寺 -- 19 行願寺
洛陽三十三所観音霊場
1 頂法寺 -- 2 誓願寺

参考文献

  • 竹村俊則『昭和京都名所図会5 洛中』、駸々堂、1984
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』
  • 華道家元池坊由来記 1924年
  • 中前正志「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」『女子大国文』、京都女子大学・京都女子大学短期大学部、2007(ciniiで閲覧可[1]
  • 『国史大辞典』9巻、吉川弘文館
  • 圭室文雄編『日本名刹大事典』、雄山閣、1992
  • 小野直敏・佐藤信・舘野和己・田辺征夫編『歴史考古学大辞典』、吉川弘文館、2007

脚注

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  1. 縁起については、『国史大辞典』(吉川弘文館)9巻、p.651および(中前、2007)、pp.2 - 14による。
  2. 『日本名刹大事典』(雄山閣、1992)、p.620(該当部分の筆者は木場明志)
  3. 『歴史考古学大辞典』(吉川弘文館、2007)、p.1236(「六角堂」の項の筆者は古藤真平)
  4. 『国史大辞典』(吉川弘文館)9巻、p.651(「頂法寺」の項の筆者は井上満郎)
  5. 『歴史考古学大辞典』(吉川弘文館、2007)、p.1236(「六角堂」の項の筆者は古藤真平)
  6. 上野啓純 『華道家元池坊由来記』 国立国会図書館 大正13年 華道の濫觴/14〜17p
  7. (中前、2007)、p.25

関連項目

外部リンク

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