日野家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:日本の氏族 日野(ひの)家は、日本貴族の家系のひとつ。藤原氏北家に属し、名家の家格を有した堂上家である。


テンプレート:-

概要

藤原内麻呂の子の真夏の孫にあたる藤原家宗が、伝領地である山城国宇治郡日野(京都府京都市伏見区)に弘仁13年(822年)に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を伝承し、永承6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立し、別名を日野薬師とも称した。これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、名字も日野と名乗るようになった。

承安3年(1173年)に生まれた浄土真宗開祖の親鸞は、この一族の有範の子であるとされる。親鸞は娘覚信尼を同族の広綱に嫁がせた。その子孫が門主として本願寺を率いた大谷家である。

日野流はいずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降、名家の家柄として定着した。極官はおおむね中納言であったが、鎌倉時代伏見天皇に重用された俊光がはじめて権大納言にまで昇り、日野流の嫡流の地位を確立した。元亨2年(1324年)に発覚した後醍醐天皇の武力倒幕計画である正中の変に積極的に参画したことで著名な資朝は俊光の子であるが、父俊光が持明院統の重臣であったにもかかわらず、あえて大覚寺統の傍流である後醍醐に仕えたために父から勘当されている。同様に後醍醐に仕え、元徳3年(1331年)に発覚した第2次の倒幕計画元弘の乱に参画した俊基は日野流の傍流の出身である。

建武の新政のもとで、足利尊氏が後醍醐と決定的に対立して軍事衝突にいたった際、日野家出身の三宝院賢俊持明院統光厳院が尊氏に後醍醐追討の院宣を与える仲介をなしたことで、後醍醐と対抗する大義名分を得たことから、日野家と足利家の結びつきが生じた。正平の一統が破綻したあと、尊氏が擁立した後光厳天皇からも重用された日野流は、公家の分家の創立が低調となった時代にもかかわらず裏松烏丸日野西など多くの分家を創出した。室町幕府3代将軍足利義満正室であった業子及び康子(裏松家出身)以来、将軍(室町殿)の正室は日野流、特に裏松家から出すことが例となり、4代義持正室栄子、6代義教正室宗子、8代義政正室富子、9代義尚正室(実名不詳、勝光の娘)、11代義澄正室(実名不詳)と6代にわたって将軍の正室を輩出している。一時、義政の継嗣に擬せられた義視正室も勝光・富子の妹(実名不詳)である。

一方で、日野流の隆盛は、室町殿にとって重荷となる側面もあり、6代将軍足利義教は日野流の勢力抑制に乗り出す。正室であった宗子も退けられ、代わって正親町三条公雅の娘である尹子が正室となった。日野流の宗家である有光も、義教の不興を買って失脚し、所領没収の憂き目を見ている。家督と所領は有光の弟秀光が代わって継いだが永享4年(1432年)に死去し、日野流に属する広橋家兼郷の子息春龍丸が跡を継いだ。しかし、春龍丸もその年のうちに死去し、結局、日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。

失意の有光は、南朝復興を目指す後南朝と結んで嘉吉3年(1443年)に武装して禁裏へ乱入し、三種の神器の一部を奪う禁闕の変を起こすことになった。有光らは比叡山延暦寺根本中堂に立て籠もったがやがて殺され、事件とは無関係であった有光の子資親も殺害されて、日野家はいったん完全に断絶した。

義教が嘉吉元年(1441年)に赤松満祐により殺害されて、その行き過ぎた専制政治に対して原状を回復しようとする動きが起き、この一環として日野家の再興もはかられることになった。新しい日野家の当主となったのは、やはり日野流に属する裏松家の当主で義教の指示により暗殺された義資の孫勝光であった。義教の跡を継いで将軍となった7代義勝・8代義政の母重子が裏松家の出身であったことによるものと考えられる。その後、勝光の妹富子が義政の正室となり、勝光は義政・富子のもとで強大な政治的影響力を握り、本来名家の家格では昇進することのできない左大臣にまで昇り「押大臣(おしのおとど)」と称された。勝光の死後は子息政資が継いだが早世。政資の跡は徳大寺実淳の次男高光(のち澄光、内光と改名)が継いだが、彼は桂川原の戦いに参加して戦死した。家運はしだいに傾き、さらに内光の子息晴光の嗣子である晴資も下向していた駿河において父に先立って早世する。その後の晴光の死により日野家は、またもや断絶することとなった。

しかし、晴光の未亡人であり晴資の母である春日局は、13代将軍足利義輝乳人として室町幕府に一定の政治的影響力を有しており、春日局の尽力と義輝の庇護により日野家の経営は維持された。義輝は春日局の守る日野家に、同じ日野流の広橋家から養子輝資を迎えて、日野家を継承させた。成人した輝資は栄進して権大納言にいたった。

輝資は、出家して唯心と名乗ったのちは、徳川家康の側近のひとり(駿府城に出仕し、近江国蒲生郡に新たに1,030石余の所領を与えられた)として、朝廷幕府の双方に強い影響力を及ぼした。輝資の子孫は朝廷に仕える堂上家だけでなく、幕府に仕える高家をも分立させた。 江戸時代の日野家(堂上家)の家禄は1,034石であった。明治時代にいたり華族制度のもとで資秀伯爵を授けられた。

同じ藤原北家真夏流の堂上家として、広橋家柳原家烏丸家竹屋家日野西家勘解由小路家(かでのこうじけ)、裏松家外山家豊岡家三室戸家北小路家の12家を数える。また、親鸞の末裔である本願寺門主の大谷家は、堂上家ではないが、それと同格の准門跡の格式を代々認められた。

系図

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。

参考文献

第二部戦国期の公家領 第一章日野家領の研究 p168〜p215

テンプレート:堂上家一覧