衣笠祥雄

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テンプレート:Infobox baseball player 衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - )は、日本の元プロ野球選手内野手)。現在は野球解説者野球評論家。所属事務所はキャスト・プラス日本プロ野球名球会会員。広島東洋カープオーナー付スタッフ。京都府京都市東山区馬町出身[1][2]。愛称は鉄人(てつじん)。

父親がアフリカ系アメリカ人在日米軍人であった)で母親が日本人ハーフ。長男は、俳優の衣笠友章[3]赤ヘル打線の主砲として1970年代後半から80年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である。

経歴

市内洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した[4]1964年平安高等学校3年時、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、植木一智(後に阪神)であった。

テンプレート:By広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向。

テンプレート:Byから一塁手として一軍レギュラーに定着。

テンプレート:Byにはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人長嶋茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、三塁手にコンバートされる(本当はゲイル・ホプキンスが「一塁手がいい」と言ったのがコンバートの原因だった)[5]。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている。

テンプレート:By盗塁王のタイトルを獲得。

1974年までの背番号28から、鉄人横山光輝漫画鉄人28号』より)の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも飛び抜けて体が頑丈であった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、大相撲の幕内力士青葉城とその頑丈さを並び賞されたこともある。

テンプレート:By10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、テンプレート:Byはシーズン序盤から極度の大不振に陥った。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあり、手当たり次第に物を投げ飛ばしたという[6]。この年は代打代走守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた[7]江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた[7]

テンプレート:By7月29日の対ヤクルト戦は飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、ノーゲームが宣告された。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された[7]

テンプレート:Byも12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った[7]

テンプレート:By8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成する。

テンプレート:Byには37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点と自己最高ともいえる成績を残した。打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。

テンプレート:By6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった[7]

メジャーリーグベースボールルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、テンプレート:Byの開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった[7]。6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。6月13日の対中日戦で2131試合に到達。この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた[8]6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞を授与された。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。この試合では2回に新浦寿夫から先制の17号2点本塁打を放ち、3回にも二塁打を叩き、ベンチへ退いた[7]。功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。

同時代のチームメイトに山本浩二という強打者がおり、引退後も鉄人のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長嶋茂雄ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。

引退後は、1988年から東京放送(TBS。その後、企業再編によりTBSラジオ&コミュニケーションズTBSテレビに分立)の野球解説者を務める[9]。一方で、朝日新聞嘱託で運動面のコラムを受け持つ他、日本テレビ系『午後は○○おもいッきりテレビ』のコメンテーターなどタレント活動も行う。ジャズにも造詣が深いほか、ソニーPCVAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択テンプレート:リンク切れ」でVAIO愛好家としても紹介されている。

現役時代から引退後にかけて、広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めていた。

テンプレート:By野球殿堂入り。

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された。
  • 1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという。
  • 1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた(但し関根は2008年9月27日フジテレビ739プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている)。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。
  • テンプレート:Byの「江夏の21球」で知られる日本シリーズ第7戦では、古葉竹識監督の投手起用に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた。チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。江夏が日本ハムファイターズに移籍した1980年オフのキャンプでは、が入ると「豊がいない」と泣いていたという。
  • 現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割を超えたことがたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働23年で9回100三振以上のシーズンがあったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。
  • シーズン打率3割到達経験なしの通算2000本安打達成者は柴田勲田中幸雄の2名のみだが、2000本安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズンが2000本安打達成後であるため。
  • 打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある、数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治イチローの2人のみ)。
  • 阪神タイガース江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠にとっても通算1000個目となる三振であった。
  • 連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」との言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日カル・リプケン・ジュニアオリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。
  • 一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。1986年以降は思うように成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年当時、三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。
  • 広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。
  • 長崎県長崎市布巻町(旧・三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。
  • 通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、非常に振る舞いが紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても怒るどころか、左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら1塁へ向かっていた。上記の西本が死球を与えた際も、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったら「危ないから下がっていろ」と言われ、衣笠の器の大きさを感じたと語っている。
  • NHK特集で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。
  • 極度の偏食で肉しか食べられないが、下柳剛との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を「野菜は牛が食うとる」と一蹴したという。[10]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 広島 28 46 44 3 7 1 0 1 11 2 0 0 1 0 0 0 1 4 1 .159 .178 .250 .428
テンプレート:By2 32 40 34 3 5 3 1 0 10 2 1 0 0 0 4 0 2 9 1 .147 .275 .294 .569
テンプレート:By2 28 52 48 6 12 2 0 2 20 5 1 1 0 0 3 0 1 13 2 .250 .308 .417 .724
テンプレート:By2 127 463 395 52 109 19 2 21 195 58 11 4 1 2 54 0 11 76 11 .276 .377 .494 .872
テンプレート:By2 126 485 428 43 107 12 0 15 164 46 32 15 5 1 40 1 11 73 17 .250 .330 .383 .713
テンプレート:By2 126 459 406 44 102 10 3 19 175 57 13 5 2 1 42 3 8 81 14 .251 .333 .431 .764
テンプレート:By2 130 543 460 72 131 18 2 27 234 82 12 11 2 2 64 3 15 71 10 .285 .390 .509 .898
テンプレート:By2 130 565 498 67 147 18 1 29 254 99 12 7 0 6 49 5 12 77 16 .295 .372 .510 .882
テンプレート:By2 130 529 454 52 94 12 1 19 165 53 6 3 4 3 65 6 3 73 17 .207 .310 .363 .674
テンプレート:By2 130 529 471 72 119 10 1 32 227 86 7 5 0 4 48 2 6 78 14 .253 .330 .482 .811
テンプレート:By2 130 532 479 66 132 22 1 21 219 71 18 4 0 4 44 2 5 61 21 .276 .343 .457 .800
テンプレート:By2 130 569 522 82 156 26 2 26 264 69 31 14 5 1 31 2 10 84 19 .299 .350 .506 .856
テンプレート:By2 130 582 514 88 136 22 2 25 237 67 28 15 8 1 53 1 6 81 11 .265 .340 .461 .801
テンプレート:By2 130 547 461 81 123 18 1 30 233 87 9 13 2 4 69 8 11 83 14 .267 .375 .505 .881
テンプレート:By2 130 478 410 82 114 21 2 20 199 57 15 4 4 0 55 4 9 72 9 .278 .376 .485 .861
テンプレート:By2 130 549 489 79 144 20 0 31 257 85 16 6 6 2 42 2 10 89 6 .294 .362 .526 .888
テンプレート:By2 130 553 495 82 134 23 2 30 251 72 7 7 8 2 40 3 8 83 16 .271 .335 .507 .842
テンプレート:By2 130 551 483 74 135 22 0 29 244 74 12 2 12 2 44 0 10 89 10 .280 .352 .505 .857
テンプレート:By2 130 557 496 86 145 25 1 27 253 84 8 4 6 2 49 4 4 89 10 .292 .361 .510 .871
テンプレート:By2 130 542 490 79 161 25 1 31 281 102 11 1 6 7 34 2 5 83 13 .329 .378 .573 .952
テンプレート:By2 130 540 480 77 140 16 0 28 240 83 10 5 6 5 46 2 3 77 12 .292 .354 .500 .854
テンプレート:By2 130 520 477 42 98 11 0 24 181 59 4 2 4 0 32 2 7 80 10 .205 .266 .379 .645
テンプレート:By2 130 403 370 40 92 17 0 17 160 48 2 2 6 1 23 3 3 61 13 .249 .297 .432 .730
通算:23年 2677 10634 9404 1372 2543 373 23 504 4474 1448 266 130 88 50 931 55 161 1587 267 .270 .345 .476 .820
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1972年7月18日、対阪神タイガース14回戦(岡山県野球場)、3回裏に江夏豊から左越2ラン ※史上35人目
  • 150本塁打:1974年6月9日、対中日ドラゴンズ9回戦(中日スタヂアム)、8回表に三沢淳から左越逆転決勝3ラン ※史上68人目
  • 1000試合出場:1975年4月24日、対大洋ホエールズ3回戦(広島市民球場)、5番・三塁手で先発出場 ※史上178人目
  • 1000本安打:1976年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、4回表に三沢淳から中前安打 ※史上95人目
  • 200本塁打:1976年8月28日、対大洋ホエールズ20回戦(川崎球場)、1回表に根本隆から中越先制ソロ ※史上25人目
  • 250本塁打:1978年6月8日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、2回表に田村政雄から先制2ラン ※史上14人目
  • 1500試合出場:1978年9月25日、対ヤクルトスワローズ24回戦(広島市民球場)、7番・三塁手で先発出場 ※史上60人目
  • 1500本安打:1980年4月9日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、3回裏に野村収から中前安打 ※史上37人目
  • 300本塁打:1980年6月1日、対中日ドラゴンズ9回戦(広島市民球場)、1回裏に藤沢公也から左中間へ先制ソロ ※史上13人目
  • 1000三振:1980年9月6日、対阪神タイガース18回戦(広島市民球場)、1回裏に江本孟紀から ※史上6人目
  • 3000塁打:1981年7月21日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦からソロ ※史上17人目
  • 1000打点:1982年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、7回裏に水谷啓昭から2ラン ※史上14人目
  • 350本塁打:1982年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、4回裏に野村収から左越3ラン ※史上11人目
  • 1000得点:1982年6月4日、対読売ジャイアンツ10回戦(広島市民球場)、5回裏に山本浩二の適時打で生還し記録 ※17人目
  • 2000試合出場:1982年8月29日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手で先発出場 ※史上18人目
  • 3500塁打:1983年7月10日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦から左中間へ先制ソロ ※史上12人目
  • 2000本安打:1983年8月9日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、5回裏に小林繁から左前安打 ※史上16人目
  • 300二塁打:1983年9月1日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、4回表に野村収から ※史上24人目
  • 400本塁打:1983年9月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、4回表に宮本賢治から左越ソロ ※史上9人目
  • 4000塁打:1985年7月5日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に福間納から左中間二塁打 ※史上9人目
  • 450本塁打:同上、8回表に山本和行から左越ソロ ※史上8人目
  • 350二塁打:1986年5月11日、対読売ジャイアンツ7回戦(広島市民球場)、4回裏に西本聖から右翼線二塁打 ※史上16人目
  • 2500試合出場:1986年8月10日、対中日ドラゴンズ15回戦(広島市民球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上4人目
  • 1500三振:同上、7回裏に都裕次郎から ※史上初
  • 2500本安打:1987年6月14日、対中日ドラゴンズ11回戦(徳山市野球場)、4回裏に江本晃一から左越ソロ ※史上4人目
  • 500本塁打:1987年8月11日、対ヤクルトスワローズ15回戦(広島市民球場)、4回裏に尾花高夫から左越ソロ ※史上5人目
その他の記録
  • 2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録
  • 678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位
  • サイクル安打:1976年7月7日、対読売ジャイアンツ16回戦(札幌市円山球場) ※史上28人目
  • 20年連続シーズン2桁本塁打(1968年 - 1987年)※歴代4位タイ
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ
  • 5試合連続本塁打(1971年6月6日 - 6月10日)
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1977年10月4日 - 10月5日)
  • 1イニング2死球:1976年8月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、3回表に青山久人金井正幸から ※日本記録
  • オールスターゲーム出場:13回 (1971年、1974年 - 1977年、1980年 - 1987年)
  • 代打の代打で満塁本塁打:1973年10月10日、対ヤクルトスワローズ戦 ※NPB史上初[11]

背番号

  • 28 (1965年 - 1974年)
  • 3 (1975年 - 1987年)

関連情報

CM

出演番組

著書

  • 『限りなき挑戦―鉄人と呼ばれるオレの野球人生』(旺文社・1984/12) ISBN 4-01-009824-4
  • 『自分とどう闘いつづけるか―継続こそ力なり!』(PHP研究所・1985/04) ISBN 4-569-21554-8
  • 『ルー・ケーリッグを超えて―忍耐野球の軌跡』(ベースボール・マガジン社・1987/09) ISBN 4-583-02646-3
  • 『お父さんからきみたちへ―明日(あす)を信じて』(講談社・1988/10) ISBN 4-06-203834-X
  • 『人生、フルスイング 』(佼成出版社・1993/04) ISBN 4-333-01633-9
  • 『野球の夢一途に』(日本放送出版協会・1998/03) ISBN 4-14-080357-6
  • 衣笠祥雄監修、野球と野球人を考える会編 『野球道とは何か』(KKロングセラーズ・2008/1) ISBN 9784845408030
  • 『野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡』(ベースボール・マガジン社・2008/12) ISBN 978-4583101293
  • 『水は岩をも砕く(男のVシリーズ)』(KKロングセラーズ・2008/12) ISBN 978-4-8454-2136-7

関連書籍

  • 山際淳司著『バットマンに栄冠を』(角川書店・1988年11月)ISBN 4041540550
  • 本田靖春著『戦後の巨星二十四の物語』(講談社・2006年10月)ISBN 4062135329
写真集
  • 立木義浩撮影『親と子の情景(2) 立木義浩写真集』(1998年9月)ISBN 9784620605463
祥雄・友章親子の写真が掲載。

関連映像作品

テレビ番組
ビデオグラムVHS

漫画・アニメ

  • 野球狂の詩 水原勇気とドリームボール対決をしている。

所属事務所

  • スポーツ・マネジメント・システム(SMS。TBSビジョンスポーツ事業部。2000年頃まで所属)
  • キャスト・プラス(クリエイティブ・メディア・エージェンシー=CMA時代の2001年頃より所属)

脚注

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参考資料

関連項目

外部リンク

インターネットアーカイブの保存キャッシュも含む。

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  1. 『データバンクにっぽん人』、佐藤正弥編、現代書林、1982年、13頁
  2. 『限りなき挑戦』より、リポーターの山際淳司が出身地として馬町を取材するシーンを見ることができる(テロップでも馬町の名が表示されている)。馬町は京都女子大学付近に位置している。
  3. 『テレビ・タレント人名事典』第6版(2004年、日外アソシエーツ編・発行/紀伊國屋書店発売)ISBN 9784816918520
  4. 『限りなき挑戦』
  5. ナンバー豪打列伝2 P.95~96
  6. 江夏豊左腕の誇り P.292
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 宇佐美徹也プロ野球データブック P.118~121
  8. ついに2131試合 衣笠祥雄 世界記録に自ら祝砲 - スポニチアネックス 日めくりプロ野球 2010年6月配信
  9. 『TBS50年史』資料編P234掲載の「主なスポーツ番組解説者」においても、1988年から2001年現在のプロ野球解説者としてリスト内に明記されている。
  10. ガンバレ日本プロ野球!?J SPORTS)2011-2012シーズン・第6回放送での下柳の発言。
  11. 週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ
  12. 『TBS50年史』資料編P198掲載ラジオ番組一覧表または『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』収録ラジオ番組リストより、『サンデーTOKYO』を参照。
  13. 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録のラジオ番組リストより、『衣笠祥雄のほっとひといき』を参照。
  14. NHKは何を伝えてきたか NHK特集 放送番組全記録一覧+番組公開ライブラリーリスト 1985年 - 1986年度の単発番組一覧