江夏の21球

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江夏の21球」(えなつのにじゅういっきゅう)は、山際淳司によるノンフィクションプロ野球1979年の日本シリーズ第7戦において、広島東洋カープ江夏豊投手が9回裏に投じた21球に焦点を当てている。Sports Graphic Numberに掲載された後、山際のエッセー集『スローカーブを、もう一球』(1981年、角川書店)に収録された。

概要

1980年文藝春秋から発行された「Sports Graphic Number」創刊号に掲載された。読者の反響が大きく、山際淳司をスポーツノンフィクション作家として世に認めさせた作品として知られている。またドキュメンタリーとして映像化され、『NHK特集・スポーツドキュメント「江夏の21球」』(1983年1月24日)、日本テレビ系「知ってるつもり?!」 「山際淳司江夏の21球物語」(1999年9月19日)として放送された。

この作品が広く知名度を獲得したことにより、現在では題材となった試合の場面そのものを指して「江夏の21球」と呼ばれることも多い。

題材(実際の経過)

題材となったのは、1979年11月4日大阪球場[1]で行われたプロ野球日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ(以下近鉄)対広島東洋カープ(以下広島)の9回裏の攻防である。

両チーム3勝3敗で迎えた第7戦は、小雨が降る中で試合が進み、7回表を終了した時点で4対3と広島がリードしていた。広島・古葉竹識監督は万全を期すため、絶対的なリリーフエース、江夏豊を7回裏からマウンドへ送っていた。迎えた9回裏、近鉄の攻撃。この回を抑えれば広島は優勝、球団史上初の日本一となる。ところが、同じく初の日本一を目指す近鉄もただでは終わらなかった。先頭の6番打者・羽田耕一が初球に安打を放って出塁し、にわかに場面は緊迫する。以下は、この回に江夏が投じた全21球とそれに伴う試合の様子である。

投球 打順 打者 カウント/ランナー 結果 内容
1球目 6番 羽田耕一
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ヒット 羽田、初球をセンター前にヒット。無死一塁。近鉄・西本幸雄監督は羽田に代え、シーズン代走盗塁記録を持つ切り札・藤瀬史朗を代走に送る。
2球目 7番 クリス・アーノルド
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ボール 初球、広島バッテリーは盗塁を警戒して外し、ボール
3球目
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ボール 広島バッテリー、もう1球外す。ボール。
4球目
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ストライク 見逃し、ストライク
5球目
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ボール 藤瀬がスタート。投球はボール。捕手水沼四郎が二塁へ送球するがこれが悪送球となり、藤瀬は一挙に三塁へ達する。無死三塁。ボールカウントも1ストライク3ボールとなった。
6球目
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ボール
四球
事実上敬遠となるボール。アーノルドは四球となり、一塁へ。無死一・三塁。西本はアーノルドに代え代走にこれも俊足の吹石徳一を送る。この投球の後、広島ベンチから池谷公二郎北別府学ブルペンへ。
7球目 8番 平野光泰
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ボール 初球はストレートが高めに浮いてボール。
8球目
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ストライク 平野はハーフスイングを取られてストライク。
9球目
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ボール 一塁走者・吹石がスタート。投球はボール。藤瀬の本塁突入を警戒して、水沼は二塁へ送球せず。吹石盗塁成功。無死二・三塁、すなわち一打サヨナラの場面となる。
10球目
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ボール 水沼が立ち上がり、敬遠開始。ボール。
11球目
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ボール
四球(敬遠)
ボール。敬遠四球で平野は一塁に歩く。無死満塁となる。
12球目 9番 代打佐々木恭介
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ボール 9番には投手山口哲治が入っていた[2]が、西本は前年首位打者でこの年も打率.320を記録していた「左殺し」の異名を持つ切り札・佐々木恭介代打に送る。その右打者佐々木への初球は内角に大きく外れるカーブでボール。
13球目
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ストライク 2球目は見逃しのストライク。外寄りのストレート。
14球目
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ファウル 3球目、内角ギリギリ、ベルト付近のストレート。佐々木が強振し、バウンドした打球は三塁線へ。三塁手三村敏之がジャンプするも届かず、ヒットかと思われたが、結果はファウルボール
15球目
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ファウル 捕手とのサイン交換の前に一塁手衣笠祥雄がマウンドの江夏のもとへ駆け寄る。投球は内角高めのカーブで、ファウルボール。
16球目
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ボール 内角低めのストレートが外れてボール。
17球目
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ストライク
空振り三振
前の球と同じ球道から内角に食い込むカーブが膝元に入り、佐々木は空振り三振。一死満塁となる。
18球目 1番 石渡茂
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ストライク 初球、カーブを見逃しのストライク。
19球目
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ストライク
スクイズ失敗
3走者がスタート。石渡がスクイズの構えをする。水沼が立ち上がる。江夏は外した球を投げる。石渡は飛び付くようにバットを出してスクイズを試みるが、ボールは水沼のミットの中へ。スクイズは失敗。藤瀬は三塁に戻ろうとするが、既に二塁走者の吹石が三塁に達しており、戻り得ず、水沼にタッチされ、アウト。このスクイズ失敗によって二死二・三塁となる。
20球目
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ファウル ファウルボール。
21球目
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ストライク
空振り三振
空振り、三振。試合終了。広島初の日本一決定。

『江夏の21球』

表面的な事実としては以上の通りだが、山際淳司は江夏本人に対して長時間インタビューをするなどして、単なる投打のやり取り以外に発生していた駆け引きなどを取材。それらを総合して一つの作品にまとめたのが『江夏の21球』である。具体的には、以下のような場面が描かれる。

  • 1球目、江夏は9回裏先頭バッターの羽田が「点差、場面、状況を考えればほぼ確実にウェイティングしてくるであろう」と考えて、初球から簡単にストライクを取りにいったが、羽田は初球から打って出て安打を放つ。「このヒットでペースが狂った」と江夏は述べている。
  • 5球目、藤瀬の「盗塁」は、実はヒットエンドランサインだったが、アーノルドが見落としていた。俊足の藤瀬ではあったが、スタートが遅れたためアーノルドが見逃した瞬間にアウトになることを覚悟したという。しかし、水沼の送球が低く難しいバウンドになったこともあり、ベースカバーに入った高橋慶彦が捕る事が出来ず近鉄は命拾いする。ベンチで苦笑いする西本の姿が映像に残っている。また、水沼は悪送球した事を悔やんだといい、後日自宅でビデオを何度も見たという。送球を逸らした高橋は「捕ることは無理でも止めなければいけなかった。あれで自分は一気に緊張してダメだった。」と語っている。
  • 6球目、江夏がアーノルドに四球を与えた後、広島の古葉監督はブルペンに北別府を派遣。この時ブルペンでは既に池谷も投球練習をしていた。「同点延長になり、江夏に代打を出したあとの守り(当時の日本シリーズは、指名代打制を採用していなかった)を考慮したため」と古葉は後に語っているが、これを見た江夏は「自分のことを信用しないのか」と憤り、マウンド内野手が集まった時に、「自分を信用しないのならば辞めてやる」と言い放った。古葉も江夏の憤りに対し「江夏ほどの投手ならそう思って当然」と語っている。しかし江夏も内心では少なくとも同点になる事は覚悟しており、さらに随分あとになってから「あの時の古葉さんの行動は理解できた」とも語っている[3]
  • この試合、広島バッテリーは日本シリーズ用のサインを使っていたが、9回の途中から慣れているシーズン中のサインに変えたという。
  • 13球目、江夏が佐々木に投じたボールは佐々木ほどの打者であれば「楽に外野フライにできる」ボールだった。それを見逃した、あるいは見逃さざるを得なかったことは佐々木にとっても近鉄にとっても痛恨であった。このボールを見逃したことについて、後に「野球生活最大の後悔」と佐々木は述べている。一方、江夏はこれがきっかけで佐々木から三振を奪える配球が閃いたという。
  • 14球目、佐々木のきわどい打球について江夏は「あのコースなら打ってもファウルだ」と確信していた。しかし、内野でバウンドした打球のフェア・ファウル判定は、打球の着地点で判定するのではなく、ベース上の空間を通過していたか否かで判定するので実際はかなり際どい判定だったと言えた。だが、近鉄側は三塁コーチである仰木彬が判定に異議を唱えるような行動を示さず、そして西本が仰木に絶大な信頼を寄せていたこともあって、この判定に抗議は行わなかった[4]。また、この9回裏から三塁で先発出場していた衣笠が一塁に、二塁で先発出場していた三村が三塁にポジションチェンジしており、背の低い三村がジャンプして届かずファウルボールだったので、もし三村より少し背が高く、跳躍力のある衣笠がそのまま三塁を守っていれば、衣笠はボールを弾いてフェアとなり近鉄が同点またはサヨナラ勝ち、捕れたとしてもホームへの送球は不可能だったのではないかとも言われる。後年三村はこの場面について二宮清純に尋ねられた際、「その話は墓場まで持っていこうと思っている」と、ボールに触れていたことを匂わせる発言をしている。
  • 15球目を投じる前、一塁を守っていた衣笠が一人で江夏のもとに向かい、「(信用されなければ辞めるという)おまえの気持ちと自分も一緒だ。気にするな。中途半端にだけは打たれるな(思いっきり投げて打たれるならいいじゃないか)」と声を掛けた。さらに戻る途中に「お前にもしものことがあったら、俺もユニフォームを脱ぐよ」と励ました。これで江夏は吹っ切れた。
  • 18球目を投じる前、打席に入った石渡を見て水沼は「明らかに緊張しており、スクイズで来るのは見え見えだった」と証言している。しかも中央大学の後輩でもある石渡に対して、「おい!スクイズやろ!いつしてくるんや?」と、言葉でプレッシャーを与えていたらしい。石渡にスクイズのサインを伝えた仰木は、石渡の背後で食い入るように自分を見つめる水沼の姿を見て、スクイズ失敗を予感したという。
  • 19球目を投じる前、球審の前川芳男がマウンドへ行き、「おい豊、どうだ?放れるか?」と尋ねた。すると江夏は、「下がぬかるんでいて放れない」と答えた。それに対して前川は、「みんな同じ条件下なのだから投げなさい」と諭した。因みに前川は悪天候も考慮し「もし9回終了時点で同点なら引き分けにしていた」と出演したTV番組で語っている。
  • 19球目、この試合のクライマックスの場面を巡る、投手江夏・打者石渡・監督古葉の3人の証言の食い違いが白眉である。この時江夏はカーブの握りをしたままボールをウエストし、スクイズを外している。投球動作に入った後、三塁走者藤瀬の本塁突入に気付いた江夏の、もはや握りを変える間もない咄嗟の判断であったが、暴投する危険の極めて高いこの行為につき、石渡はその事実を頑として認めていない。また、古葉は「シーズン途中からこの様な事態を想定して投手には変化球でウエストを投げさせることを練習させていた」と語っているが、江夏によれば「その様な事実は一切なかった」という。なお、江夏は指が短く、しっかりとしたカーブが投げられなかったが、そのカーブがウエストを可能にしたと言われる。このウエストはカーブ回転が掛かっていたため通常のウエストより少し落ちて石渡のバットの下をくぐったとも言われている。が、球審を務めていた前川はTV番組の中で「私見」と断った上で「意図的に外したのではなく、すっぽ抜けであろう」と述べている。
  • スクイズ失敗の直後、西本の脳裏には大毎監督時代、大喧嘩の末オーナーの永田雅一に解任された1960年の対大洋第2戦でのスクイズ失敗が過ぎり、「俺はスクイズの神様に見放されているのかなあ…」とつぶやいた、という。また、近鉄ベンチで西本の隣に座っていた有田修三はそれまで終始はげしく貧乏ゆすりをしながら目線は常に定まらず、ガムを噛む口もせわしなく、さらに西本の目の前にツバを吐き捨てるといった行動がカメラに捕えられていたが、石渡のスクイズ失敗の直後に捕えられた有田の姿は、貧乏ゆすりをやめ、ガムを噛む口の動きは半開きのまま、一点(打席方向に見える)を見つめて微動だにしていなかった。

NHK特集

山際淳司の作品を読んだ近鉄ファンの佐藤寿美・報道ディレクターが企画を提出した。本人にスポーツ番組の経験はなく、すでに出版されているドキュメンタリーと同じ題材をNHK特集で取り上げることには反対が強かった。番組制作の条件として部長から、山際の作品を超えるものを作れと言われたという。

当時の試合映像は当日中継を行った毎日放送にも残っていなかった。NHK広島放送局の職員がたまたま録画したビデオテープをロッカーに置いてあったものが見つかった。しかしニュースでダイジェスト用に使うために用意したものだったため、実況は入っていなかった。ラジオで実況をしたNHKの島村俊治アナウンサーが自分で録音していたテープがあり、ようやく素材をそろえることができた。

山際の文章にないものを出すため、野村克也に1球ごとの解説をさせた。画面上にボールの軌跡を描くことを手作業で行った。また、大阪球場に行って、スコアボードに代打・佐々木が表示される場面など、試合当時は存在しない映像を収録し直した。

野村は冒頭の解説で「プロ野球は半世紀が流れていますけど、これ程の場面に出くわしたことはない。おそらくこれからも出るか出ないか分からないと思う。それぐらいの名場面が1979年の広島×近鉄の日本シリーズじゃなかったかと思います」と話した。

19球目についてのエピソード

江夏は、石渡に投じた19球目のウエストしたカーブを自身の著書の中で「あの球は水沼じゃなきゃ捕れなかった」と綴っている。

野球解説者の豊田泰光は、左投手の江夏からは三塁走者は見えないはずなので、とっさにはずしたというより偶然外れたのではないかと考えていたようで、石渡の引退後に次のような場面になったと新聞のコラムに寄稿している。当時、豊田が「あれはすっぽ抜けではなかったのかなあ」というと、石渡が「そう思いますか、トヨさんも」と、涙を流さんばかりにしている。結果的にスクイズは失敗、西本近鉄は敗れた。しかし、スクイズを「はずされた」のか、偶然「はずれた」のか。敗者にとって、違いは大きい[5]

なお、当該コラムで豊田は、天覧試合での長嶋のホームランをあくまでも「ファウル」と主張する村山実と石渡とを重ねてあわせて述懐している。 しかし伊東勤は西武時代に同じようなスクイズを仕掛けられた場面で、江夏が同じく瞬時にウエストして高めに投球コースを変えた経験から、この場面も江夏の意思ではずしたという確信を持っている[6]

またこの19球目については、工藤健策著「名将たちはなぜ失敗したか」草思社、ISBN 9784794212146において、「広島ベンチが近鉄のサインを盗んでいたため、水沼は最初からスクイズだとわかっていた」という説が提唱されている(工藤は、古葉監督時代の広島においてはこういったサイン盗みが行われており、それが球界における古葉の評価を下げた原因だと主張している)。

しかし、山際の著書において「変化球でウエストするなどありえない」とする工藤の主張とは矛盾する石渡の証言が紹介されている上、伊東以外にも江夏は咄嗟の判断で投げるコースを変える事が出来るとする証言がある[7]

脚注

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  1. 本来近鉄主催試合が開催される日本生命球場は収容人員が3万人に満たず、藤井寺球場は当時ナイター設備が未整備であった関係で、大阪球場を間借りして行われていた
  2. 当時、日本シリーズでは指名打者制がまだ採用されていなかった(初採用は1985年)。
  3. 2009年発行の「なぜ阪神は勝てないのか?~タイガース再建への提言」では、江夏が「翌年の開幕日に古葉にこのことの不満をぶつけ、古葉と急遽話した結果、和解した」と自ら述べている。
  4. なお、仰木は決して「審判は絶対である」という考えではなく、むしろかなり気性が激しく、現役・コーチ時代に1度ずつ、そして監督時代に5度の通算7度の退場処分を受けている。また、西本自身も同様で、1969年の日本シリーズ初の退場事件に代表されるように際どい判定には異議を唱えるタイプであり、そして通算3度の退場処分を受けている。
  5. 2008年2月14日、日本経済新聞朝刊
  6. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号24-25ページ「江夏の21球は本当だったんだと強烈な印象を受けた 伊東勤が語る最高峰の投球術」
  7. 澤宮優著『プロ野球残侠伝』パロル舎、ISBN 9784894190832

関連項目

外部リンク