北別府学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox baseball player 北別府 学(きたべっぷ まなぶ、1957年7月12日 - )は、鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身の元プロ野球選手投手)。 そのコントロールの良さから「精密機械」の愛称だった。

経歴

プロ入り前

宮崎県立都城農業高等学校3年時、春季九州大会1回戦の伝習館(福岡)戦で完全試合を達成。しかし全国高等学校野球選手権大会には出場できなかった。1975年のドラフト会議にて1位指名され広島東洋カープに入団した[1]。甲子園には出場していないため、この時はまだ全国的には無名の存在で、広島スカウト陣以外には日本ハムファイターズ監督に就任したばかりだった大沢啓二が目をつけているだけだった[1]。大沢は関係者から得た情報を基に北別府の指名を検討していたが、フロントやスカウト陣の反応は薄く、結局獲得は見送られてしまったという[1]。大沢は後に、「無名の選手だったから獲得しようと思えば簡単にできた。指名できなかったのが心残りだ」と語っている。

同期には山根和夫長内孝小林誠二らがおり、後のカープの主力選手がそろっている(山根和夫は1977年入団。)。

プロ入り後

入団1年目から1軍で登板し、勝ち星を挙げる。2年目の1977年から先発ローテーション入りし3年目の1978年に10勝を挙げると、この年から1988年まで11年連続二桁勝利を達成。1979年にはチームトップの17勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。

1982年には20勝し最多勝沢村賞を獲得。1986年には9月、10月で7勝0敗を記録しチームのリーグ優勝に大きく貢献。最多勝、最優秀防御率最高勝率MVP、沢村賞に輝いた。また1986年の優勝達成時には8回まで投げきっており、9回も続投する予定だったが、自ら直訴し、最後は抑え津田恒実にマウンドを任せたという美談がある。

1989年1990年は10勝に届かず限界説が囁かれたが、1991年に11勝を挙げ復活すると同時に最高勝率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献。1992年7月16日、対中日ドラゴンズ戦で球団史上初の200勝を達成、これは同時に日本プロ野球における20世紀最後の200勝到達でもあった。オフの契約更改では広島初の1億円プレーヤーとなった。

その後は成績が下降し、1994年に、この年限りでの現役引退を表明。1994年8月21日巨人22回戦で松井秀喜から本塁打を浴び、金田正一の379を上回りセ・リーグの最多被本塁打記録となる380を記録した。またホーム最終戦となる9月20日の巨人戦では引退登板が予定されていたが、この年のセ・リーグは広島・巨人・中日の3チームが終盤戦まで三つ巴の激しい優勝争いを繰り広げており、この日の試合も展開が二転三転する状況で遂に登板の機会に恵まれず、試合後に引退セレモニーのみが執り行われた。なおこの試合は8対7で広島が勝利し、引退試合は翌1995年3月12日オープン戦にて行われた。

現役時代に残した通算213勝は日本プロ野球歴代第18位記録、先発勝利数200勝は歴代第10位記録で、これらは共に広島東洋カープの球団記録でもある。中日戦に強い中日キラーとしても有名で、通算52勝27敗という成績を残している。なお、200勝目を挙げたのも中日戦である。

一方、日本シリーズには5回出場(1979年・1980年1984年・1986年・1991年)し先発として6試合に登板しているが、防御率3.21ながら0勝5敗と一度も勝利投手になれなかった。

引退後

引退後は広島ホームテレビテレビ朝日野球解説者に就任し、その後2001年から2004年まで広島の投手コーチを務めた。2005年より再び広島ホームテレビ解説者を務めている。2005年から2007年まではデイリースポーツ野球評論家も兼任。2007年9月、自身の野球人生を綴った自伝「それでも逃げない」(グラフ社刊、友野康治との共著)を出版、この中で、娘が医学生であることを明かしている。2010年からは沢村賞の選考委員を務める。

2012年1月13日野球殿堂に競技者表彰にて選出された[2]

2013年:広島ホームテレビ『恋すぽ』広島FMラジオ『北別府学の裏ブログ』と2本のレギュラーを持つ。寡黙な現役時代とは裏腹に野球のことには的確に厳しく述べ、私生活や日常のことは非常に楽しく語る北別府の番組の評判はとても良い。また、現役の選手の中に混ざって20位以内に入るほどの人気ブロガーとしても有名。 現在は、芸能プロダクションのホリプロ所属。

プレースタイル

直球の球威や変化球の切れ味に飛び抜けたほどのものはなかったが、それらを補って余りあるほど優れた制球力から「精密機械」の異名を取り、投手王国と呼ばれた1980年代の広島の主軸として活躍した。読売ジャイアンツ江川卓らと並び、1980年代のセ・リーグを代表するピッチャーの一人である。また、1980年代に挙げた通算137勝は、江川の126勝を上回るリーグ1位の成績である(ただし江川は1987年に引退)。直球は滅多に投げず最高球速は144km/hで、球種はスライダーカーブシュートなどであった。

精密機械と呼ばれるほどの抜群の制球力を身に着けたきっかけは、プロ入りして間もなく、並み居る先輩投手の投球練習を見て、そのボールスピードに圧倒されたことだったという。速度で敵わないならコントロールを磨くよう心がけ[3]、3年頑張って結果を残せなかったら野球を辞めて故郷に帰ろうと考えていたと、後に本人は語っている。

そのコントロールの良さを示すエピソードとして、本塁上の三角形地点に置いた3個の空き缶を、たった3球投げただけで全て倒してのけたという話がある[4]。バッテリーを組んでいた達川光男もその投球について「ミットを動かさずに捕れる」と高く評価しており、広島投手コーチ時代に「筋肉番付」で「ストラックアウト」に挑んだ際には、現役選手ですらなかなか達成できないパーフェクトを成し遂げていた。

そのようにコントロールに絶対の自信を持っていたからか、現役時代は審判の判定にクレームをつけることが多かった。野球中継の解説においても「最近のピッチャーはおとなしいですね。私は審判とも戦っていましたよ」と語っている。ストライク・ボールの判定に疑問のある場合には、球審を試すように平然と続けて寸分たがわない同じコースの球を連投して球審を試すこともあった(同じくコントロールに絶対の自信を持っていた江夏豊も同様のことを行っている)。セリーグの審判部長だった田中俊幸は北別府について、「他の投手が先発した試合の倍は疲れた」と述べている。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 広島 9 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 125 29.1 28 5 12 0 0 18 0 0 13 13 4.03 1.36
テンプレート:By2 33 22 3 0 0 5 7 0 -- .417 588 131.2 150 27 51 1 6 90 0 0 87 81 5.52 1.53
テンプレート:By2 39 25 8 2 1 10 7 0 -- .588 745 175.0 180 27 56 0 7 98 2 0 91 89 4.58 1.35
テンプレート:By2 36 33 12 3 4 17 11 0 -- .607 905 215.2 218 23 39 2 15 155 1 0 92 86 3.58 1.19
テンプレート:By2 30 30 6 2 0 12 5 0 -- .706 766 177.2 210 19 44 6 9 82 0 0 86 80 4.04 1.43
テンプレート:By2 32 32 13 2 3 16 10 0 -- .615 934 226.1 229 28 43 6 8 123 2 0 89 83 3.31 1.20
テンプレート:By2 36 35 19 5 5 20 8 1 -- .714 1061 267.1 223 22 44 5 6 184 2 0 89 72 2.43 1.00
テンプレート:By2 33 30 12 1 0 12 13 0 -- .480 918 215.2 228 25 61 2 8 106 1 0 108 95 3.96 1.34
テンプレート:By2 32 27 9 2 1 13 8 2 -- .619 855 203.2 215 18 46 3 2 99 1 0 83 75 3.31 1.28
テンプレート:By2 35 24 8 3 2 16 6 2 -- .727 833 199.0 209 19 55 3 8 85 3 0 88 79 3.57 1.33
テンプレート:By2 30 30 17 4 5 18 4 0 -- .818 915 230.0 216 21 30 4 10 123 0 0 67 62 2.43 1.07
テンプレート:By2 29 29 6 1 4 10 14 0 -- .417 776 181.2 206 26 31 5 2 119 2 0 101 88 4.36 1.30
テンプレート:By2 27 27 13 1 9 11 12 0 -- .478 861 209.2 224 22 27 5 3 112 3 2 87 73 3.13 1.20
テンプレート:By2 22 21 1 0 0 9 10 0 -- .474 482 110.0 135 22 18 0 4 69 1 0 75 67 5.48 1.39
テンプレート:By2 17 17 1 0 1 8 4 0 -- .667 420 98.1 115 15 14 3 2 58 1 0 52 48 4.39 1.31
テンプレート:By2 25 24 3 1 0 11 4 0 -- .733 582 141.1 149 20 31 2 2 73 0 0 56 53 3.38 1.27
テンプレート:By2 26 26 4 1 1 14 8 0 -- .636 735 181.1 179 25 28 1 2 101 1 0 61 52 2.58 1.14
テンプレート:By2 13 13 0 0 0 6 6 0 -- .500 302 69.0 79 13 17 0 3 38 0 0 41 40 5.22 1.39
テンプレート:By2 11 11 0 0 0 3 3 0 -- .500 215 50.2 62 13 9 0 2 24 0 0 33 32 5.68 1.40
通算:19年 515 460 135 28 36 213 141 5 -- .602 13018 3113.0 3255 380 656 48 99 1757 20 2 1399 1268 3.67 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1982年5月4日、対阪神タイガース2回戦(広島市民球場)、5回表3死目に達成
  • 1500投球回数:1984年5月23日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回裏1死目に達成
  • 100勝:1984年6月28日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(横浜スタジアム)、先発登板で6回2失点 ※史上85人目
  • 1000奪三振:1985年8月4日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(横浜スタジアム)、8回裏にジェリー・ホワイトから ※史上71人目
  • 2000投球回数:1986年8月20日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、3回裏2死目に達成
  • 150勝:1987年9月29日、対阪神タイガース25回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で5回無失点 ※史上37人目
  • 2500投球回数:1989年5月31日、対中日ドラゴンズ6回戦(広島市民球場)、2回表2死目に達成
  • 1500奪三振:1990年7月30日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中村武志から ※史上32人目
  • 200勝:1992年7月16日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤ球場)、先発登板で8回1失点 ※史上22人目
  • 3000投球回数:1993年4月10日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、7回裏1死目に達成

背番号

  • 20 (1976年 - 1994年)
  • 73 (2001年 - 2004年)

関連情報

出演番組

漫画・アニメ

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Navboxes

テンプレート:広島東洋カープ1975年ドラフト指名選手

テンプレート:ホリプロ
  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite web
  2. 故津田恒実氏 野球殿堂入り 北別府氏ら4人を選出 スポーツニッポン 2012年1月13日閲覧
  3. ベースボール博物館『週刊ベースボール』2012年2月6日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/6, 81頁。
  4. 週刊ベースボール、引退記念の達川光男との対談で発言。