仰木彬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:参照方法 テンプレート:Infobox baseball player 仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手プロ野球監督野球解説者A型[1]

昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄オリックスのコーチ・監督を歴任した。特に1980年代から90年代にかけて、10.19と呼ばれた名勝負や、阪神大震災後に『がんばろうKOBE』を合言葉に快進撃を果たし、率いたチームを11年連続でAクラス入りさせた名監督として知られる。

経歴

教員をしていた両親の間に生を受ける。しかし父が太平洋戦争にて戦死し、少年期は厳格な母の手一つで育てられた。

1953年東筑高校全日制課程商業科3年の時に夏の甲子園投手として出場した。2回戦(初戦)で片岡宏雄捕手のいた浪商に0-3で完封負け。

現役時代

1954年に西鉄に入団。期待のルーキーだったが、フリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原脩監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」と、その場でセカンドにコンバートされた。三原は仰木の投げる球の回転があまりにも素直であると感じ、正二塁手の宮崎要が37歳だった事を考慮して、転向を命じたという。

元々、高校時代に急造の投手になるまでは内野手であり、1年目から宮崎に代りレギュラーに定着、同年のリーグ優勝に貢献する。1955年には規定打席に到達(40位、打率.235)、以降長きに渡り中西太豊田泰光らと共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。打率は低かったが、チャンスメーカーやつなぎ役としての役割を果たし、堅実な守備でもチームの柱となる。1956年からの3年連続日本一に大きく貢献。しかし1960年代に入り、球団の経営に翳りが見え、首脳陣の間にも不協和音が聞かれる。豊田をはじめ黄金時代の主軸がトレードや引退でチームを去る中、球団は外人中心の打線構成に舵を切る。仰木も1963年には新入団のバーマに定位置を譲り、1967年限りで現役を引退、その後は2年間西鉄のコーチを務めた。三原監督とは現役当時から野球理論について議論を交わしており、ベンチで三原の横に座っては指導者としての基礎を学んでいた。

近鉄コーチ・監督時代

1970年三原脩が監督を務めていた近鉄の守備走塁コーチに就任、主に攻撃時は三塁コーチを担当、1979年の日本シリーズ第7戦における「江夏の21球」が伝説になった広島との日本シリーズでも三塁コーチを担当していた。1974年から1981年まで近鉄の監督だった西本幸雄は「仰木はベンチのサインを1度も間違えなかった」と語っている[2]1983年オフ、ヘッドコーチ昇格。

1987年オフ、岡本伊三美監督の後任として近鉄監督に就任。1年目は西武との激しい優勝争いの末「10.19」でリーグ優勝を逃した。この年の激烈な優勝争いは球史に残るドラマティックなものであった。前年度最下位のチームを率いて当時黄金期の西武をあと一歩のところまで追い詰めた。様々な奇策による好采配は、恩師三原脩の「三原マジック」に倣って「仰木マジック」と称された。

1989年にはオリックス、西武との三つ巴の優勝争いを演ずる。この年の優勝争いもまた激しいものであったがついに2位オリックスにわずか1厘差(3位西武とは2厘差)でチームを9年ぶりのリーグ優勝に導いた。その年読売ジャイアンツを相手に行われた日本シリーズでは、3連勝の後の4連敗を喫し、チーム初の日本一を逃す。

その後は毎年Aクラスという成績を残すものの1991年1992年と2年連続西武との優勝争いに破れ、1992年をもって監督を勇退。近鉄監督時代には、野茂英雄赤堀元之など、後のチームを支えることになる若手を数多く育成した。

オリックス・ブルーウェーブ監督時代

1993年の1年間朝日放送(ABC)・九州朝日放送(KBC)・スポーツニッポンの解説者を務めた後、1994年よりオリックス・ブルーウェーブの監督に就任。就任後、これまで二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、その他にも前任の土井正三監督時代から期待されながらイップスに陥っていた田口壮を外野手として起用し成功させるなど、土井の時代に停滞していた才能を次々に開花させた。就任1年目の1994年のシーズンに早速チームを2位に浮上させると、翌年の1995年には阪神・淡路大震災に遭い、一時は試合開催さえ危ぶまれた状態から、『がんばろうKOBE』を合言葉に、オリックスとして初のリーグ優勝に導く。日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトスワローズと対戦するが、1勝4敗で日本一ならず。

1996年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツと対戦。4勝1敗で巨人を下し、監督として初の日本一に輝いた。その後リーグ優勝を果たすことはなかったが、1999年まで6年連続でAクラスを維持(近鉄監督時代を含めると11年連続)し続けた。

イチローや田口がメジャーリーグに渡り、2年連続でBクラスとなった2001年限りで監督を勇退した。尚、近鉄のコーチ時代はヘッドコーチ昇格まで、上記のように三塁コーチを担当していたが、ブルーウェーブでの最後の1年間は130試合を通して、三塁コーチに立っていた。

監督退任後阪神タイガースの次期監督として有力視されていたが、結局久万俊二郎オーナーの意向により有耶無耶となった。

オリックス・バファローズ監督時代

オリックスの監督を勇退した後、2002年から2004年までABC、スポーツニッポン解説者を務める。また、2004年には野球殿堂入りを果たす。同年末に行われた記念パーティーでのスピーチで「今日のパーティーでございますが、これは私の生前葬だと思っております」と語っていたが、実はこの時、既に肺癌が発覚しており、闘病を続けていたという。

しかし仰木は生前、癌に侵されて闘病している事実を公にすることは一切しなかった。西鉄ライオンズ以来の盟友である中西太や金村義明ら一部の球界関係者のみがその事実を知っていたが、仰木に懇願されて内密にしていたという。

2005年、かつて自身が率いた近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生した新生「オリックス・バファローズ」から監督就任要請を受け、4シーズンぶりの現場復帰を果たす。この時70歳。これは当時の歴代最高齢での監督就任だった(翌年に野村克也が更新)。闘病を続けていた肺癌は完治していなかったが、「グラウンドで倒れたら本望」と、病をおして監督に就任したという。

就任後、グラウンドでは病状を隠し気丈に振舞っていたものの、たびたび過労によると思われる居眠りやベンチに腰掛けたまま動かない場面も目立った。特に後半戦の西武ドームでの試合の際には、球場の階段を自力で上ることすらできず、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りしていた程、明らかに体調を崩している様子が周囲から確認されていたという。この2005年は終盤まで粘りながら、最終的には4位。惜しくもプレーオフ進出を逃したものの、3年連続最下位に沈んでいたチームを大いに躍進させた。

西武ドームでの最終戦後、レフトのオリックスファンに2、3度頭を下げ「ありがとう」と口にし、そのままセンターバックスクリーン(大道具搬入口)から外付けのハイヤーに乗り込んだ。

その後球団から監督続投要請を受けるも、高齢と前述の健康状態を理由としてその年限りでの勇退を決め、最終戦の翌日に記者会見を開いて監督引退と球団のシニア・アドバイザー(SA)への就任を発表した。しかし、それから僅か2ヶ月後の12月15日午後4時10分、肺癌による呼吸不全のため、福岡県福岡市内の病院で死去[3]テンプレート:没年齢法名は「仰崇院釋耀彬」。

仰木の死去の報に接し、同い年でプロ入りも同期の東北楽天ゴールデンイーグルス監督就任間もない野村克也は「もう一度監督としてアイツと戦いたかった…」とコメントするなど、死を悼む声は球界だけでなく各方面からも数多く寄せられた。

葬儀は仰木の意向により密葬にて営まれ、「天国に送る会」は2006年1月21日午前11時からスカイマークスタジアムで行われた。オリックスは、仰木の遺志を尊重して球団葬としなかった。また出身地の福岡県中間市でも、神戸での会に日時を合わせ、友人らが「天国に送る会」を開いている。会の世話人には、西鉄時代の同僚だった稲尾和久らが名を連ねた。

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 実は初めから西鉄ライオンズに決まっていたわけではなく、中日南海から誘いをもらい、どちらかの球団とは契約寸前までいっていたのだが、地元の先輩から「地元の西鉄がいいよ」と進められた。(当時の本人の気持ちとしては不本意だった。)ある日、三原脩監督と会う機会があり、そこで色々話をしていくうちに心配などが無くなり入団を決めたという。
  • 1955年5月22日松江でのトンボユニオンズ戦で、1試合6安打のパ・リーグ記録を作り上げた。この記録は2003年7月27日城島健司福岡ダイエーホークス)に並ばれたものの、依然としてリーグ1位タイ記録である。ちなみにオリックス監督時代に大島公一が1試合に5安打を打った次の打席で代打を出して変えてしまったことがある。
  • 1958年オフにセントルイス・カージナルスが来日した際、全日本チームのメンバーとして出場した豊田泰光が、当時カージナルスの二塁手であるドン・ブレイザーからグラブを貰った。豊田が福岡に帰ってチームメイトにグラブを見せびらかすのを見て、仰木もしばらく手にとって眺めていたが、豊田が「もういいだろう。返せ」と言ってグラブを奪うと、グラブには墨で「5番 仰木」と書かれていた。そして「トヨさん、こりゃ二塁手のグラブばい」と仰木に言われた豊田は、泣く泣くそのグラブを仰木に譲ったという。
  • 現役時代から、かなりの遊び人として知られていた。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督から「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。
  • 監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と全く変わらない遊び人ぶりであった。また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。
  • 球界でもかなりの酒豪として知られ、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時には、連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に2人で空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。トレードマークであったサングラスは、実は二日酔い・寝不足の顔をごまかすためのものだったという説もある。
  • 酒豪が昂じてか、近鉄監督時代には札幌遠征の試合後チーム全員でサッポロビール園に食事に出かけた際、ポジション毎に選手をビールの一気飲みで競わせ、一番早く飲みきった人間を(大阪に戻った後の)次の試合のスタメンとしたこともある。これは周囲に一般客が多数いる中で行われたため(一気飲み競争の)目撃者も多く、中には試合後同様に食事に来ていた当時パ・リーグ審判の前川芳男らもいたため、前川は近くにいた金村義明を呼び止め「お前らのチームは何てアホなことをしてるのか」と語ったという[4]
  • 本人がそういう人物であった為、グラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習そのものはかなり厳しく、とりわけ走りこみの量は12球団一とされるほどだった。
  • 温厚そうな外見とは裏腹にかなり気性が激しかった。近鉄監督時代は、代打を告げたとき、試合状況が読めておらず用意ができていなかった選手にかなり激しい鉄拳制裁を加えたこともあった。
  • 光山英和は「阿波野や野茂などの一流の選手には何も言わなかった。そうでない選手にはむちゃくちゃ厳しかった」と語っている。その光山は、ベンチに捕手登録の選手が残っていないにもかかわらず、1アウト満塁のチャンスだったため、代打を出されたことがある。その試合ではその後金村義明を捕手で起用した。
  • オリックス監督時代のある日の試合、相手チームに大量リードを許している試合の終盤で、守備要員としてベンチに入ることが多かった野手に「おい、次の回守るぞ」と守備固めに入るよう伝えたところ、「えっ」という驚きの反応を見せられたことから(一般的に守備固めによる野手交代は自軍がリードしている場面で行われることが多く、大量ビハインドの場面でのこうした交代は非常に珍しい)、不機嫌そうに「もういい」と言い、翌日その野手に2軍降格を命じた。この出来事が遠因なのか不幸な偶然の一致なのか、その選手はその年限りで自由契約となってしまった[5]
  • オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。この時の打者は松井秀喜(当時:巨人)であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾(当時:ヤクルト)を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。
  • 采配の特徴として、投手の起用、投手の交代を小刻みにおこなうことが非常に多く、勝利のためには無茶な投手起用を厭わない場面もしばしば見られた。ワンポイントリリーフは勿論、1人の打者に対して打席が完了する前に継投したこともしばしばあった。そのため近鉄監督時代には権藤博投手コーチや吉井理人と、オリックス監督時代には山田久志投手コーチと対立することがあった。
  • 攻撃面に関してはスタメンを固定することが少なく、ほとんど無数といっていい打順の形をつくり、オリックス時代の打線は「猫の目打線」と呼ばれていた。しかしこれは緻密なデータによるものであり、結果的には成功をおさめ、仰木マジックの面目躍如とされることになった。また、メンバー起用の幅を広げるために選手に複数ポジションを守ることを求め、内野手が複数ポジションを兼任したり、外野守備に定評のあった谷佳知本西厚博田口壮を内野で起用することもあった。
  • 監督としては「打倒西武」を唱え続けていた。当時の西武ライオンズは黄金期にあり、1982-98年の17シーズンでパ・リーグ優勝13回と他チームを圧倒していたが、残る4シーズンのうち1984年を除く3シーズンでは仰木が監督をしたチームが優勝している。
  • 野茂英雄長谷川滋利イチロー田口壮など、仰木が育てた選手にはメジャーリーグに挑戦した者が多い。しかもその全員が仰木のことを「師匠」「尊敬する人」と公言している。イチローに至っては、キャンプ中の仰木に会うためだけにわざわざ宮古島まで出向いたほどで、その尊敬ぶりは崇拝に近いものであり、記者の質問に「僕の唯一人の師匠ですから」とまで答えている。また、近鉄時代は確執があると噂された吉井だが、近年は「あの時代は自分が若かったせいで、仰木さんの考えが分かっていなかっただけ。仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」と語っていた。
  • パンチ佐藤に芸能界転向を薦めたのも仰木である。仰木は既にパンチが芸能界に向いていると見抜いており「お前は野球をやっても大成出来ないが、芸能人なら大成できるから野球をやめろ」とストレートに戦力外通告したが、言われたパンチは怒るどころか「ハイ、辞めます」と二つ返事で答えて引退を決意した。パンチもまた仰木を非常に尊敬しており、その仰木の意見を無条件で受け入れたのである。「土曜スペシャル」(テレビ東京系)で共演した時にパンチは「自分はあの時まだ現役続行出来ると思ったんですが」と語ったが、仰木は「お前を現役続行で使っても無理だった」と語った。
  • 1995年のインタビューにて、野茂とイチローの共通点を問われた際、「頑固さ」をあげている。
  • 自動車を運転しないため、球場へのアクセスは電車タクシーを利用していた。近鉄時代には、新大阪駅近くの自宅マンションから地下鉄御堂筋線近鉄南大阪線を乗り継いで藤井寺駅まで通っており、電車内でファンに声を掛けられることも多かった。近鉄時代最後の年となった1992年には、親会社である近鉄電車ダイヤ変更告知や、近鉄特急アーバンライナー」のイメージキャラクターに起用された。
  • 2001年10月5日、オリックス監督としての最後の試合(近鉄戦:グリーンスタジアム神戸)では、試合後オリックスの選手による胴上げに次いで、対戦相手である近鉄の選手たちからも胴上げをされた。
  • 2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。その後、この2人のやりとりの口の動きを毎日放送のニュース番組「VOICE」が詳細に分析し、仰木が土山に、投球の判定について「コース、低いかな?」と尋ねた言葉を、土山が「投手、菊地原」と聞き違え、そこから「言ってもいない投手交代がコールされたとみられる」と報じた。ビデオには、仰木が身振りを交えてコースについて尋ねている様子が映っている。だが仰木自身は後にテレビ番組にて「(『投手・菊地原』と)言ったかもしれないなぁ」と土山を擁護するようなコメントをしている。
  • 2005年7月16日の対ロッテ戦で、ランドール・サイモンのショートゴロの間に、谷佳知が本塁に突っ込み、アウトを宣告され、激昂した谷は球審の胸を突き飛ばし、そのまま掴みかからんばかりの勢いでつめより、仰木監督もベンチから飛び出し、猛抗議で暴言を吐いたとして、2005年シーズンで2度目の退場処分を受ける。仰木にとってはこれが最後の抗議・退場となった。70歳3ヶ月は現在も退場処分の最高齢記録である。
  • 2005年にオリックスの監督として復帰した時にイチロー自身が「51番は監督につけてほしい」と勧めたが、「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられへん。」と断った(ただし、仰木自身は1970年に近鉄の守備走塁コーチに就任した際に51番をつけたことがある)。
  • 清川栄治がオリックスの投手コーチに就任した際に仰木がオリックス・バファローズ初代監督のときに着けた背番号「70」を背負っている。清川は背番号「70」を選んだ理由として「同じ背番号を背負い、指導者として一歩でも仰木さんに近づきたい。」と語っている。清川は仰木の下で1991年1992年の2年間プレーした[6]
  • 死期が迫った2005年12月に担当の医師に「20日にイチローと食事の約束をしている。それまでは生きさせてくれ」と訴えたという。またこの年のオフに入団した清原とも「この間食事したところでまた食事しましょう」と清原が誘ったところ、「あの店は食べきれないから今度は店を変えよう」と約束していたという。清原は自分の最後のチームになったオリックスに誘ってくれた仰木のことを深く感謝しており、自分の引退試合セレモニーで「天国にいる仰木さん、自分に最後の活躍の場を与えてくれてありがとう!」と感謝の言葉を言っている。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 西鉄 101 280 250 27 54 11 6 5 92 26 15 5 6 0 22 -- 2 51 6 .216 .285 .368 .653
テンプレート:By2 126 406 370 48 87 15 1 15 149 39 22 7 8 2 22 0 4 70 5 .235 .285 .403 .688
テンプレート:By2 124 438 388 52 94 19 1 10 145 33 23 10 17 1 30 0 2 75 3 .242 .300 .374 .674
テンプレート:By2 96 246 211 28 54 6 2 6 82 23 4 4 5 1 26 0 3 49 4 .256 .346 .389 .734
テンプレート:By2 115 331 296 38 59 10 0 2 75 27 10 3 10 0 22 0 3 65 4 .199 .262 .253 .515
テンプレート:By2 128 316 281 38 62 11 2 7 98 31 8 6 14 2 16 0 3 52 8 .221 .270 .349 .619
テンプレート:By2 114 426 374 46 100 19 3 4 137 30 8 8 15 0 33 1 4 57 4 .267 .333 .366 .700
テンプレート:By2 123 453 408 45 99 19 1 9 147 52 11 7 5 3 33 3 4 69 13 .243 .306 .360 .666
テンプレート:By2 111 406 357 48 76 13 5 5 114 21 5 10 18 1 25 1 5 75 7 .213 .274 .319 .593
テンプレート:By2 83 245 193 16 37 8 0 1 48 17 5 5 20 2 29 1 1 39 5 .192 .300 .249 .549
テンプレート:By2 105 275 234 23 55 11 1 5 83 23 3 3 12 2 23 2 4 40 1 .235 .314 .355 .669
テンプレート:By2 62 116 105 17 16 1 0 0 17 2 1 1 3 0 8 0 0 21 2 .152 .212 .162 .374
テンプレート:By2 36 30 28 2 6 0 0 1 9 2 1 0 1 0 1 0 0 7 0 .214 .241 .321 .563
テンプレート:By2 4 6 6 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .167 .167 .167 .333
通算:14年 1328 3974 3501 428 800 143 22 70 1197 326 116 69 134 14 290 8 35 670 62 .229 .294 .342 .636
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1988年 昭和63年 近鉄 2位 130 74 52 4 .587 0 154 .253 3.23 53歳
1989年 平成元年 1位 130 71 54 5 .568 157 .261 3.86 54歳
1990年 平成2年 3位 130 67 60 3 .528 14.5 181 .275 4.34 55歳
1991年 平成3年 2位 130 77 48 5 .616 4.5 157 .265 3.46 56歳
1992年 平成4年 2位 130 74 50 6 .597 4.5 155 .247 3.69 57歳
1994年 平成6年 オリックス 2位 130 68 59 3 .535 7.5 92 .285 3.93 59歳
1995年 平成7年 1位 130 82 47 1 .636 115 .259 2.88 60歳
1996年 平成8年 1位 130 74 50 6 .597 124 .271 3.55 61歳
1997年 平成9年 2位 135 71 61 3 .538 5 111 .263 3.61 62歳
1998年 平成10年 3位 135 66 66 3 .500 4.5 140 .264 4.03 63歳
1999年 平成11年 3位 135 68 65 2 .511 10.5 112 .263 3.64 64歳
2000年 平成12年 4位 135 64 67 4 .489 8 116 .260 4.64 65歳
2001年 平成13年 4位 140 70 66 4 .515 7 143 .263 4.11 66歳
2005年 平成17年 4位 136 62 70 4 .470 26 97 .260 3.84 70歳
通算:14年 1856 988 815 53 .548 Aクラス11回、Bクラス3回
  • 順位の太字は日本一
  • 1988年から1996年までは130試合制、1997年から2000年までは135試合制、2001年から2003年までは140試合制、2004年から136試合制

表彰

記録

背番号

  • 42 (1954年 - 1954年途中)
  • 5 (1954年途中 - 1967年)
  • 30 (1968年 - 1969年)
  • 51 (1970年)
  • 71 (1971年 - 1992年)
  • 72 (1994年 - 2001年)
  • 70 (2005年)

関連情報

著書

  • 『燃えて勝つ:9回裏の逆転人生』(学習研究社、1990年3月、ISBN 405104582X)
  • 『勝つということ:対談・熱球交友録』(鐘ヶ江管一[7] 共著、集英社、1997年3月、ISBN 4087811441)
  • 『勝てるには理由がある。』(集英社、1997年4月、ISBN 4087802434)
  • 『人を見つけ人を伸ばす:個性を発掘する人材活用』(二宮清純共著、光文社、2002年6月、ISBN 4334007414)

関連書籍

  • 『仰木彬「人材育成の黄金律」:出てくる芽を摘むな!』(太田真一著、プレジデント社、1995年12月、ISBN 483341600X)
  • 『仰木彬ニューエイジの管理学』(仰木番記者グループ編著、飯倉書房、1996年5月、ISBN 484220298X)
  • 『仰木彬「夢実現」の方程式:野茂、イチローらを育てた男の実像』(永谷脩著、イースト・プレス、2006年4月、ISBN 4872576578)
  • 『仰木彬 パ・リーグ魂:命をかけてプロ野球を救った男』(金村義明著、世界文化社、2006年12月、ISBN 4418065369)

解説者としての出演番組

参考テレビ番組

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes

テンプレート:歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後・1991-2010)
  1. 『勝つということ―対談・熱球交友録』(1997/03 集英社 鐘ヶ江管一共著)
  2. 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P42
  3. 仰木彬氏が死去 近鉄、オリックスの名将 共同通信47News 2005年12月15日閲覧
  4. 『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)第4回
  5. 2006年天理教青年会機関誌「大望」に寄稿された球団OBパンチ佐藤の文章より
  6. 週刊ベースボール2009年3月2日号より
  7. 鐘ヶ江は1991年雲仙普賢岳火砕流発生時の長崎県島原市長。島原キャンプで西鉄が宿舎としていた旅館「国光屋」の主人であったことから、仰木をはじめとする当時の西鉄ナインと親交がある。