永田雅一

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自身が馬主だったトキノミノル東京優駿を勝利した時の記念撮影で轡を取る永田雅一(1951年6月3日

永田 雅一(ながた まさいち、1906年1月21日 - 1985年10月24日)は、日本実業家映画プロデューサープロ野球オーナー馬主昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)にかけて活動していた。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称で知られる。

経歴

生い立ち

京都府京都市染料友禅問屋を営む父・永田芳太郎、母・紀美の長男として生まれる。父は熊本県阿蘇出身、母は東京出身。3つぐらいのときから家運が傾きはじめた。工場が火事になったり、女中と小僧が駆け落ちしたりで転落に拍車をかけた。商売を縮小したが、父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった[1]

少年時代は非行に走り、一時、京都のヤクザ「千本組」に籍をおいた。大倉高等商業学校(現・東京経済大学)を中退。マキノ兄弟との縁から1925年日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものだった。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だったという[2]。 駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、藤村義朗浅岡信夫望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築く[3]

戦後、河野一郎岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。

映画界の父

1934年日活を退社して第一映画社を創立し、自前のスタジオにて映画を製作している。1936年、同社が解散する際には従業員を前に泣きながら解散の弁を語ったとされる。その後は松竹大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となるのが表の履歴である。しかし、竹中労の「聞書き アラカン一代」によると撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。

永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三阪急阪神東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。この立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという噂は当時から残っている。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長となる。

大映社長として

社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)[4]

1951年後述する様に個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞。

この様に大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある[5]。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。

とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『源氏物語』『雨月物語』『地獄門』等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。

『地獄門』では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っている。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てたのはいうまでもない。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。

大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう。」と言ったとされる。無論、口約束だったのはいうまでもない。

1953年には、松竹、東宝、東映新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1958年にその日活も加わって、テレビ業界への対抗策と化した悪名高き六社協定に発展する(1961年に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。

この様な状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫の引退、上記の山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。

それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、徳間書店子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。

熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で映画『日蓮』を製作した。

プロ野球との関わり

1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同志が姉妹だった側近の武田和義[6]1948年中日ドラゴンズ赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した[6]。小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している[7]。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収[7]。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。

1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが[8]、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。

その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった後、1958年から毎日オリオンズ対等合併して、大毎オリオンズとなった。この時は毎日新聞社との共同経営ではあったが、オーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズ三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した(詳細は西本幸雄#大毎監督辞任を参照)。このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。

「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、チーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせて現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、球場に作った神棚に選手の無事を祈っての合掌を欠かさなかったなど、チームに対する思いは確実にファンなどに届いていた。それが後述の「ファンからの胴上げ」につながる。

1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京球場を建設、その開場セレモニーでは観客に対し「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計や、当時の後楽園球場にも劣らなかった各種設備などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。

1969年、遂に経営難で盟友・岸信介の仲介によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、翌1970年、パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田オーナー万歳」「パ・リーグ万歳」の喝采と共に優勝監督や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客達は選手を片端から胴上げして回った)。1971年、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。同時にオーナー職を中村長芳に譲った。無念の永田は記者会見で号泣。「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、球界を去った。

そして、この願いは1974年のパ・リーグ、日本シリーズ優勝で叶えられることとなる。中日ドラゴンズとの日本シリーズ初戦、スタンドにはすでに完全に表舞台から姿を消していた永田の姿があった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。永田はその光景を「みんな僕のところにいた選手たちなんだ」と涙を流しながら見つめていたという。

1985年10月24日死去。享年79。1988年野球殿堂入り。

馬主として

1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした「幻の馬」という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。

勝負服は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。

日蓮宗信者として

永田が熱心な日蓮宗信者であることは有名であるが、これは母・紀美の影響によるものである。紀美は家業の友禅染問屋が急激に傾いたことを機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣でを願掛けし、毎年山に登り続けた姿を見続けることとなる。後年になって『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に追うものなんじゃ』と語っている。

1952年 - 1953年ごろからは12月31日になると身延山の七面山に入り、元旦会のお籠りをしていたという。永田全盛期には元旦会や節分会になると長谷川一夫や時津風理事長等を従えて来山していたという。

1958年には映画『日蓮と蒙古大襲来』の制作に関わっている。

晩年の20年程は信徒総代となる。失火によって焼失した鐘楼をほぼ独力の寄付により再建するほか、様々な施設の寄付にかかわっている。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、霊場のしかも総本山への個人をモデルとした銅像建立は異例である。

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 「羅生門」の試写で途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていたが、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ、米アカデミー特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞したとたん、手の平を返したように絶賛し始めた。
  • 高橋ユニオンズを合併した直後、当時のパ・リーグ7チームでは日程が組みにくいとして、この年に最下位となったチームを消滅させようと提唱したが、結局自身がオーナーであった大映ユニオンズが最下位となり球団消滅に追い込まれた。
  • プロ野球再編問題 (1973年)の際、1リーグ8球団にしては、という話が持ち出されたオーナー会議で「いや日本シリーズを考えれば、両リーグ制がいいんだ。だが両リーグ制にすると、みんな巨人と一緒になりたがる」と言ったあと、「だからジャンケンで勝ったものが、セでもパでも好きなほうを選ぼう」と発言。これには他球団のオーナー全員が椅子から転げ落ち、1分間ほど二の句が継げなかったという。
  • 東京スポーツ新聞社を経営していた時期がある。これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。東スポは永田の手腕により全国紙へと成長した。なお、プロ野球・国民リーグの大塚アスレチックスから金星スターズを経て大映スターズの経営に携わった大塚幸之助は、最晩年東スポの監査役を務めていた。
  • 当初日本におけるペプシコーラ事業の代表者であった。永田が日本での販売会社を設立し、上掲の大塚幸之助が総支配人を務めていた。映画館で売っているコーラはペプシとよく言われたのはこの所以。先述の東京スタジアムのスコアボードにも、ペプシとミリンダの大広告が見える。また現在も後身たるロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムに広告が掲示され、ロッテリアで扱うコーラはペプシである。
  • 母・紀美の『百回詣で』に対抗して『百回仲人』の願を立てていたという。百回目の仲人は坪内ミキ子夫妻。
  • 武州鉄道汚職事件で武州鉄道の発起人に名をつらねていたので贈賄罪で逮捕された。
  • 1946年の衆院選に京都選挙区から立候補をしたが、落選をしている。
  • 小山正明によると、山内一弘との「世紀のトレード」の裏では、永田本人が直接、阪神球団社長に「小山をくれないか」と熱心に電話攻勢をかけていたという。
  • 『最後の活動屋』を標榜していた。山本嘉次郎にも『映画人は信用出来んが、活動屋は信用出来る』と評されている。
  • 1950年ごろ、永田は大映の社宅の前で社員に向かって「諸君、ここには今何もないが、いずれプールや遊園地を造る、ここにいる赤ん坊が20歳になったときには素晴らしい施設が完成しているだろう!」との大演説をぶった。その20年後、いよいよ大映が倒産間近となったとき、永田は再び社宅の前で、「ここは抵当に入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだという。これに対し、この場にいた20歳の青年たちから「あの時の約束はどうした、プールや遊園地はどうした!」と罵声が浴びせられ、ショックを受け卒倒寸前で腕を抱えられ、退場したという。
  • 大映倒産間際のこと。湯浅憲明が、組合からの突き上げを食らいながら完成させた[9]、永田大映最後の映画作品『成熟』(1971年)の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員に支えられながら号泣。湯浅も「あの怪物が」と複雑な心境だったというが、いつもの永田節を聞かされてきた社員たちは、この期に及んでも半信半疑だったという[2]
  • 聖心女子学院パトロンでもある。広尾の旧久邇宮邸を堤康次郎に先んじて買収し寄贈、札幌の敷地を工面したのも永田である。教育にも関心があり、ある時息子の永田秀雅が『あなたは本当は何になりたかったのです』と尋ねたところ『立派な学校を建てて、貧乏人も金持ちも区別なく教育を受けさせてやる仕事だよ』と答えたという。

家族・親族

  • TBSラジオのディレクター(のちプロデューサー)で「コサキン怪傑アドレナリン」及び後継の「コサキンDEワァオ!」、「伊集院光 深夜の馬鹿力」などを担当した永田守は孫。特に「深夜の馬鹿力」においては「永田家には足を向けて寝られないほどの大恩がある」と語る安部譲二が数々の企画に出演するなど、彼の影響力を窺い知る逸話がある。
  • その永田守に永田雅一は「大映パパ」と呼ばせていたという。
  • 歌舞伎役者市川雷蔵の妻・太田雅子(一般人)は永田と養子縁組関係にあった。
  • 外食産業専門コンサルタント会社「株式会社ブグラーマネージメント」代表取締役社長兼CEOである永田雅乙は曾孫にあたる。生前最後の本家曾孫男児として産まれた永田雅乙を雅一は大変可愛がって育てたという。雅乙の性格は雅一譲りとも言われ、外食産業では「平成の永田ラッパ」とも評される。

関連項目・人物

企業関連

映画関連

野球関連

その他

参考文献

伝記

  • 菊池夏樹 『菊池寛と大映』 白水社、2011年

脚注

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外部リンク

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  1. 『私の履歴書 経済人2』211頁
  2. 2.0 2.1 『ガメラを創った男 評伝 映画監督・湯浅憲明』(アスペクト)
  3. 田中純一郎『一業一人伝「永田雅一」』、時事通信社、1962年、P27 - 28
  4. 『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店)
  5. 遠山彰『日本ダービー物語』(丸善)、P42
  6. 6.0 6.1 関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P258 - 267
  7. 7.0 7.1 関三穂『プロ野球史再発掘 4 』ベースボール・マガジン社、1987年、P25、26
  8. 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させたもの(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。
  9. 山形県鶴岡の商工会議所の出資で制作され、すでに末期状態だった大映は一銭も負担していない。