相良義陽

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相良 義陽(さがら よしひ / よしはる[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥後国戦国大名相良氏当主。肥後人吉城主。

生涯

幼少時

天文13年(1544年)、相良晴広の長男として生まれる。幼名は万満丸。のち初名の頼房(よりふさ)を名乗る。

弘治元年(1555年)、父・晴広が死去したため、家督を継承した。しかし、まだ幼少であったため、実権は祖父上村頼興が握っていた。

弘治2年(1556年)、薩摩国大口を併合するため姻戚である菱刈氏菱刈重任と謀り、大口城主の西原氏に重任の妹を嫁がせて栗田対馬を付け、大口城奪取の機会を伺わせた。あるとき西原氏が病床についたのを見計らい重任は80余名の兵を城中に乱入させて放火、西原氏は火中に没した。重任は大口城を頼房に献上、更に伊作島津氏島津忠良からも大口領を割譲され、それ以後は球磨八代芦北の兵1,000を交代で入れ守らせた。

同年、天草で騒乱が起こると、栖本氏志岐氏有馬氏の連合軍に対すべく、天草氏上津浦氏大矢野氏に加勢する為にこちらにも番兵を派兵している。

祖父の死後

弘治3年(1557年)、頼興が死去したため親政を行なおうとしたが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父上村頼孝が、弟上村頼堅稲留長蔵とともに頼房に対して謀反を起こした。3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたらしいが、謀反は失敗。頼堅は殺害され、頼孝に与した菱刈重任も討ち死に。頼孝・長蔵は北原氏を頼って日向飯野(現・宮崎県えびの市[2]に逃亡。のち永禄2年(1559年)7月29日に士卒700名と共に頼孝が、その後に長蔵も帰参するが、永禄10年(1567年)に共に殺害された。

永禄2年(1559年)、この頃に名和氏により度々八代を攻められるようになり、また5月には、頼孝らの叛乱以降に関係の悪化していた菱刈氏により水俣城が落城する(翌年に天草の上津浦氏の仲介で、水俣内の12屋敷との交換により取り戻す)。更に、8月には人吉奉行東長兄丸目頼美の対立が家中を二分する内紛に発展。頼房を擁立した長兄に対し、頼美は湯前城主東直政日向椎葉の豪族那須祐貞に支援を求めたが獺野原の戦いで敗北。頼美は日向に逃亡し伊東義祐に仕えた。

永禄5年(1562年)、伊東義祐に領地を簒奪された北原氏のために島津氏と盟約し、島津貴久北郷時久と協力して北原氏の旧領回復のために派兵する。相良軍は日向・馬関田城まで兵を抜き北原兼親飯野城に入れることに成功、更に島津氏・北郷氏と相互扶助を約し、白鳥神社にて起請文を取り交わした。しかし、翌永禄6年(1563年)に兼親の叔父・左衛門尉が、伊東氏と相良氏を盟約させ飯野から島津氏を追い出そうと謀り、また東郷相模守の仲介を得て、同年の4月14日(『日向記』の日付。『八代日記』は5月14日)相良氏は伊東氏と共に島津氏の大明神城(大明司塁)を落とした[3]。これにより島津氏との関係は悪化、更に島津氏への使者である東出羽守が、相良側と相違する内容を島津方に述べ(これにより東出羽守は逃亡したが、永禄7年(1564年)2月9日に相良氏の追手により成敗されている)、関係は断絶するに至る。

永禄7年(1564年)には将軍足利義輝から従四位下修理大夫の官位と偏諱(「義」の一字)が与えられて「義頼」(よしより)[4]、更に「義陽」と名乗った。この出来事は周辺諸国に衝撃を与え、大友宗麟島津義久室町幕府に激しく抗議をしている[5][6](だがその後も室町幕府に献金は行っていたようで、織田信長が中央で勢力を伸ばして足利義昭を擁立し、二条城修築の費用を諸大名に求めた際には、相良氏の朝廷への貢租7年分に当たる費用を献じている)。義頼から義陽と名乗るようになったのは、天正2年(1574年8月15日から[4]である。

島津との対立~降伏

永禄7年(1564年)2月11日より島津氏の侵攻が開始されるようになる。義陽は堅く城を守るよう命じていたものの、このとき大口城の城番をしていた赤池長任は逆に島津氏の領地へ兵を進めている[7](一方、義陽自身はこの頃、天草に於ける志岐氏・栖本氏・有馬氏の連合軍との戦い、及び名和氏との戦いの方へ出陣しており、奪われていた豊福城を回復している)。

永禄10年(1567年)11月24日から25日、島津勢が菱刈氏を征伐すると、菱刈氏は10に及ぶ塁を落去し大挙して大口城へ逃れ来る[8]。翌永禄11年(1568年)、長任はこの菱刈勢と共に、大口城を攻めて来た島津勢を破るが、永禄12年(1569年)5月、このときの城番であった深水頼金の諌めを無視して、丸目長恵内田伝右衛門らが島津家久と交戦し大敗を喫した。また、伊東氏が伊東義益の急死により7月に真幸院より退去したこともあってか、相良勢は9月に大口城を開城、薩摩における領土を失い、菱刈氏も島津氏へ降伏した。これを切っ掛けに島津氏は12月28日に東郷氏祁答院氏を降伏させて薩摩統一を果たす(城の明け渡しは翌年1月)。

元亀3年(1572年)の木崎原合戦では伊東義祐と連合して島津義弘を挟み撃ちにする計画であったが、義弘の奇襲によって伊東軍が壊滅したため、慌てて引き返した。天正3年(1575年)には織田信長の依頼を受けた前関白近衛前久が相良氏をはじめ、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという[9]。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している[10]

しかし天正6年(1578年)に島津氏が大友氏を耳川の戦いで破ると、大友に与する阿蘇氏への攻撃を開始し肥後へ進出、天正7年(1579年)になると相良領へも戦火が及び、天正9年(1581年)島津義久が大挙して水俣城を包囲すると、義陽は葦北郡を割譲し、息子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出して降伏した。

響野原の戦い

降伏した同じ年、島津義久より阿蘇氏攻めを命じられた。義陽は阿蘇氏の軍師・御船城主である甲斐宗運と親友の間柄で、相互不可侵を誓い合っていたため出陣をためらっていたが、島津氏からの再三の督促により、もはやその命に逆らうこともならず、白木妙見社にて宗運と交わした誓紙を焼き捨てさせ、自らの死を祈願して出陣した。このとき島津氏は、義陽の忠誠を信じ、人質の相良忠房を送り返している。相良軍は、阿蘇氏の出城、甲佐城堅志田城に進撃、義陽は守りには向かない響野原{響ヶ原とも(宇城市豊野町糸石)}に本陣を敷いた。両城が陥ちたとの報せを受け、宗運は義陽の陣を奇襲、相良勢は壊滅。義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたという。享年38。後を長男の相良忠房が継いだ。

墓(首塚)は鮸谷{(にべがたに)現・八代市古麓町}に建てられたが、肥薩線開通の折に線路上に被らないよう墓は5 - 6mほど移動され、遺品も人吉に移された。また多良木永昌寺に供養塔がある。

また、響野原(現・宇城市豊野町糸石)の義陽が討たれた地は元々往還路で、その地が人馬に踏まれるのを危惧した犬童頼安が、土手を築かせ供養碑を建立した。現在は「相良堂」として祀られている[11]

響野原の戦い 別説

相良氏側の通説は上記の如くであるが、甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つという密約があったと記されている。但し、島津氏側でもこれを疑っておりその策に乗らなかったとの記述が『九州記 巻之十二』にあるため、義陽が響野原に出陣したのは島津義久と甲斐宗運の両氏に疑われた苦悩もあったのではないかと『人吉市史』は記述している。

人物

  • 味方の島津義弘も敵の甲斐宗運も義陽の討死の報を受け、悲嘆したとされている。特に宗運は「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたとされる。
  • 歌道に長じた人物で、神社の参詣の際に和歌を詠んだとする逸話が多く残る。

妻子

家臣

脚注

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関連項目

テンプレート:肥後相良氏当主
  1. 池田こういち著『肥後相良一族』(新人物往来社、2005年)ISBN 4404032536では、『「よしひ」或いは「よしてる」とも』としている。
  2. 相良氏の史料には薩摩飯野と書かれているが、飯野は日向国であるため誤記。
  3. 伊東氏の史料『日向記』には合力して攻めた(相良側には軍功なし)とあるが、相良氏の史料『八代日記』には、伊東氏が城へと動き落城した 程度の記述しかない。
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  5. 相良氏の史料からは島津氏からの抗議の記述は確認できない。
  6. 「義」の字そのものは先々代・義滋も与えられているため 抗議の理由は、相良氏は従五位下が通例であるのに対し、従四位下へ叙任されたことが異例であった為であろうと『人吉市史』は記述している。
  7. 大口城の城番は半年毎の交代制であるが、島津領へ侵攻したとする『南藤蔓綿録』の3度の記述のうち2度は長任が城番のとき
  8. 『明赫記』 鹿児島県史料集(27)(鹿児島県史料刊行委員会)
  9. 橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4-642-03378-5
  10. 池田こういち著 『肥後相良一族』
  11. テンプレート:Cite web