甲斐親直

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甲斐 親直 / 甲斐 宗運(かい ちかなお / かい そううん、永正12年(1515年) - 天正13年7月3日1585年7月29日))(天正11年(1583年)死去とも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将阿蘇氏の家臣。出家後になのった宗運の号で知られる。甲斐親宣の子。

生涯

永正12年(1515年)、肥後国大名・阿蘇氏の家臣・甲斐親宣の子として誕生。

天文10年(1541年)、島津氏に内通し阿蘇氏に反旗を翻した御船城主・御船房行を討伐し、その功によって御船城を与えられ、城主を務める。永禄8年(1565年)、阿蘇氏からの離反を画策した同族(娘婿)の甲斐守昌の居城・隈庄城を攻撃し、守昌を追放した。また、永禄5年(1562年)に出家し宗運と号す。

宗運は北は大友氏、南は相良氏と同盟を結ぶことで阿蘇氏の独立を保った。しかし、大友氏が天正6年(1578年)に島津氏に敗れ、肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や龍造寺氏についたが、宗運は大友氏との同盟を維持した。天正8年(1580年)3月、龍造寺氏に従属した隈部親永合志親為河尻氏鹿子木氏と、島津氏に従属した名和顕孝城親賢による肥後国人衆の連合軍が阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運はこれを兵8000を率いて迎え撃ち、白川亘過瀬を挟んで対陣。間者の報告によって、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると、翌日未明に川を渡河して急襲。隈部勢は大混乱に陥り、敗走させられている。

天正9年(1581年)春、宗運は大友氏に見切りをつけ、龍造寺氏に人質を送り臣従を誓う。一方で、同年9月に相良氏が島津氏の軍門に下り、島津氏はすぐさま当主・相良義陽に御船城攻略を命じる。義陽は宗運と誓詞を交わした盟友であったが、肥後の国人衆を分断する目的であえて両者を争わせようとしたのである。また、御船の田代城主田代快尊・宗傳父子は、宗傳が甲斐宗運の妹婿でもあり、相良勢と対峙した。同年12月に義陽は阿蘇領に侵攻したが、宗運の軍勢は濃霧に包まれた響野原の本陣を背後から奇襲し相良軍を撃破。義陽はあくまでも退却せず、床几に座したまま戦死した(響野原の戦い)。義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたとされ、義陽の首を見た宗運は落涙したといわれる。

相良氏との戦いには勝利したものの、阿蘇氏が相良氏の協力なしに島津氏と渡り合うことは困難であった。以降宗運は外交的駆け引きにより龍造寺・島津の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。天正10年(1582年)冬に島津氏に和睦を申し入れるが、島津側が提示した条件を何一つ履行せず、逆に阿蘇氏旧領の返還を要求するなどの対応をし交渉を難航させた。

天正11年(1583年)または天正13年(1585年)に病死。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。なお、戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。しかし宗運死後の1585年、嫡男・親英は島津方が築いた花の山城を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになり親英は早々に降伏。わずか2歳の阿蘇家当主・惟光は島津氏に降伏したのち、母親に連れられて逃走し、戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。

宗運毒殺説

宗運は嫡男・親英の娘、宗運の孫娘によって毒殺されたという説がある。

阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた宗運は、主家を裏切ろうとする者、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、日向国伊東義祐への接近を試みた二男親正、三男宣成、四男直武をことごとく誅殺し、これに反発して宗運の排除をもくろんだ親英までも殺害しようとした(家臣たちの嘆願により思いとどまった)。戦国の世とはいえ、我が子を一度に4人も殺害しようというのはきわめて苛烈な処断といえた。

これに親英の妻は大いに憤激し、娘に命じて宗運を毒殺したといわれる。これは、彼女は阿蘇氏家臣・黒仁田親定の娘であったが、親定はかつて伊東氏への内通を疑われ、宗運によって暗殺されていたからであり、親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して怨まず、また宗運に復讐を企てない」旨を神の名にかけて誓約をさせていたという。そのため、親英の妻が娘の手を借りたのは、そのほうが宗運の油断を招きやすいだけでなく、かつての誓約の文言に反しないようにするためであったというのである。

関連項目

外部リンク