相良晴広

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相良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後戦国大名。相良氏の当主で、肥後人吉城主。

生涯

永正10年(1513年)、相良氏の一族である上村頼興の長男として生まれる。父の頼興は相良氏内部で絶大な影響力を持っていたため、享禄3年(1530年)に義滋より相良氏の内紛鎮圧を援助する見返りとして義滋の養子に長男を入れさせた。これが晴広である。天文5年(1536年)11月、祖父の洞然(上村長国)より、相良家の家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。

天文14年(1545年)12月、将軍・足利義晴から一字拝領を許され、このときに養父・義滋(それまでは長唯)は「義」の字を、晴広(それまでは為清)は「晴」の字を与えられている[1]

天文15年(1546年)に義滋が死去し、家督を継いで当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、冷静な判断を行い、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。また大友氏大内氏との抗争や内紛、島津氏も内紛で肥後に進出できるような余裕は無く(但しこの頃、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家島津忠良貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好であった [2][3])、晴広の時代は安定的なものであった。

天文19年(1550年)、兄の大友義鑑に追われた菊池義武(大友重治)を保護し、義鑑が二階崩れの変で死去し、大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、義武は隈本城に復帰した。義武は甥の義鎮とも対立したが晴広は義武に従い、義鎮に呼応して隈本城へ侵攻しようとした阿蘇氏を撃破した。またその頃、名和行興の家臣・皆吉伊予守武真が叛乱し宇土城を襲撃した隙をつき豊福城を回復、更に行興を義武と盟約させるなどした。しかし義武は義鎮に敗れ、晴広を頼って肥後へと赴いてきた。晴広は義武を丁重に保護し、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどして義鎮と義武の調停に努めたがうまくいかず、義武は後に義鎮の要請に従って豊後に帰る途上で殺害された。

弘治元年(1555年)、晴広は式目二十一条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。

弘治元年(1555年)8月12日に八代の鷹峰城(古麓城の郭の一つ)で死去。享年43。後を嫡男の義陽が継いだ。

人物

  • 晴広の治世は10年ほどの短いものであったが、多くの功績を残している。その中でも最大の功績は、有名な分国法である『相良氏法度』や『晴広式目21か条』を制定したことである。また、徳淵湊を発展させてとの貿易にも積極的に取り組み、相良氏の肥後支配を安定化させた名君であった。
  • 正室とは名和氏との関係悪化により天文11年(1542年)に離縁している。懐妊中での離縁であった事から夫人はそれを恨みに感じ、名和氏へと戻される船が出船する際に愛用の鏡を水中に沈め、共の女中らもこれに倣い晴広を呪詛したとされる。晴広が41歳の頃、筋骨に激痛が走る奇病を患うが、勘文者が占ったところ厄年に加え、夫人らの呪詛による水神の祟りが見られた。この祟りは真言僧らにより鎮められ平癒している(南藤蔓綿録)。

脚注

  1. 南藤蔓綿録』によると、この一字拝領の際(12月2日)に「義広」と称したが、同月26日には「晴広」に改名したとしている。
  2. 史料には島津家(伊作家)と争ったとする記述は認められず、むしろ義滋の代から交流があったとする記述は散見できる。
  3. 『南藤蔓綿録』の「北島与兵衛」の項には、晴広の代に薩摩の兵、及び島津氏の兵が大畑へ侵入したとの記述もあるが、晴広の代に大畑と境を接しているのは菱刈氏及び日向国飯野の北原氏であり、また大畑で合戦があったとする記録は、『八代日記』などには義滋の頃の大岩瀬合戦と、義陽の頃の上村頼孝らの叛乱のときのみ(共に相手は北原氏)で、晴広が当主の頃には認められない。

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