相良長毎

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相良 長毎(さがら ながつね)は、肥後戦国大名相良氏の第13代当主で、肥後人吉城主。

生涯

明応8年(1499年)、父の隠居により家督を継ぐ。文亀年中に宮内少輔に任じられる。文亀元年(1501年)、父の宿敵であった菊池能運が、宇土為光を立てた老臣隈部忠直の反乱の為にその勢いが弱まると八代地方の奪還を企図する。しかし進軍するも城を抜く事が叶わず、今度は逆に能運と手を結んだ。その翌年も八代を攻めに失敗するが、諦めることなくその翌年にも進軍し、年が明けた永正元年(1504年)2月7日、能運が城主の名和氏当主・名和顕忠に降伏を促し城から退去させた為、八代の奪還に成功する。その際、豊福城も回復したが、こちらは隈部忠直の攻勢が強まった為に、已む無く放棄している。

永正7年(1510年)、後柏原天皇宣旨を下し、長毎は従五位下近江守に任じられる。翌永正8年(1511年)に名和顕忠の猛攻に遭ったが、これを見事に防いだ。名和氏とはその後、大友義鎮の勧めにより永正14年(1517年)7月に和睦している。

永正9年(1512年)、嫡男の長祗(長男の義滋は豊永氏の娘との、次男の長隆は長倉氏の娘との子である為、正室との子である三男の長祗が嫡子となった)に家督を譲って隠居し、休也斎(休巴斎、或いは休世斎とも)と号し、永正14年(1517年)には入道して加清と号した。このとき、「相良氏法度13ヶ条」を制定する。永正15年、50歳で死去。

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