深水長智

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深水長智(ふかみ ながとも、天文元年(1532年) - 天正18年8月21日1590年9月19日))は相良氏の家臣。深水宗方(三河入道)とも。祖は相良氏4代・相良長氏の孫である長陸。父は深水頼金、子は深水摂津介。養子は深水頼蔵

生涯

深水氏は代々、相良氏の奉行職を務める家柄であったが、この長智は特に奉行としての手腕に長けていた。 和歌にも長じた人物で、元亀3年(1572年)に主君・相良義陽の側室である了信尼が難産であると聞き、長智が「露落ちて その葉はかろき 小松原」と発句すると安産になったとの逸話がある(このとき誕生したのが義陽の嫡子である忠房)。

天正9年(1581年)に義陽が戦死すると、義陽の遺児・忠房を犬童頼安と擁立かつ補佐、また義陽の弟である相良頼貞が家督を奪わんと挙兵した際もこの問題の収拾に努めた。また、島津義久の病気養生の願掛けの為に一万の発句をするなどしており、その後の島津氏との関係を良好に保つことができたのも、この長智の功績である。

豊臣秀吉九州征伐が始まると島津氏と共に闘うが、義久が八代から退去すると、人吉まで退去していた長智は、忠房の後を継いだ相良頼房がこのとき日向国にいた為、その弟である長誠を連れて八代城に出向き秀吉と会見、相良氏の存続について交渉しそれを承認させている。このとき、秀吉は長智の交渉能力や連歌の才を大いに気に入り、秀吉の直轄領である水俣地方の代官を任された。 秀雅百人一首弘化5年刊 ”空蝉の羽より軽き身を持ちて 筑紫よしとは如何にいうべき”

天正15年(1587年)に肥後国人一揆が勃発した際に頼房が、秀吉の命で佐々成政に助勢しようとした島津義弘伊集院忠棟の軍を、自分を攻めてくるものと勘違いした成政の依頼で入国を阻むという失態を犯した際も、長智は大坂上洛し秀吉に陳謝、許しを得ることに成功している。

天正18年(1590年)に病没。法名は「権大僧都法印宗方」。墓は深水長命寺(現:相良三十三観音16番札所 深水観音)にあり、現在はの神として信仰されている。

嫡子の摂津介が既に戦死していたため、長智の弟・深水織部の子である頼蔵が跡を継いだ。