薩摩国

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テンプレート:Pathnav テンプレート:統合文字 テンプレート:基礎情報 令制国 薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

沿革

大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹反乱を契機に、10月3日までに唱更国が置かれたのが、薩摩国の始まりである[1]。唱更の更は、中国の代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう[2]

国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた[3]8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。

7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。

国内の施設

国府

国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。

現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺

薩摩国分寺
薩摩川内市国分寺町

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す小社2座2社が記載されている。大社はない。
総社一宮
  • 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
  • 一宮 新田神社 (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。

二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。

安国寺利生塔

  • 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町
  • 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。

地域

現在は桜島を除く鹿児島市指宿市全域、枕崎市全域、南九州市全域、南さつま市全域、日置市全域、いちき串木野市全域、薩摩川内市全域、さつま町全域、阿久根市全域、出水市全域、長島町全域、旧菱刈町と旧南伊佐郡南部を除く伊佐市三島村十島村が含まれる。人口の過半数が鹿児島市に集中している。

高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。

江戸時代の藩

人物

国司

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守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

薩摩国の合戦

脚注

  1. 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
  2. 新日本古典文学大系『続日本紀』一の345頁、補注2の157。
  3. 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。

参考文献

関連項目

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