新井領一郎

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新井領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日1855年8月31日) - 昭和14年(1939年4月10日)は日本実業家。旧姓は星野。

人物

概観

上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と力を合わせ、自らニューヨークに渡り市場開拓・販路を確保するなどして日本初の生糸直輸出を実現した。生前は、「生きたる生糸貿易の歴史」とも称された。森村豊佐藤百太郎と共に日米貿易の先駆者といわれている。在米日本人とアメリカ人との社会交流を図った日本クラブ(The Nippon Club)と日本文化の発信拠点となった ジャパン・ソサエティ(Japan Society)の創設者の一人。日本ゴルフ協会の年鑑によると、日本にゴルフを広めた日本人初のゴルフ・プレーヤー の一人。名前の英文表記:Ryoichiro Arai、若しくは本人が日頃使用したRioichiro Arai、人からの呼び名はRyichir Arai

経歴

  • 1876年(明治9年)、生糸の市場開拓と日本からの直輸出を実現するため渡米。1876年(明治9年)、ニューヨークにある佐藤百太郎の「日本米国用達社」を拠点に生糸の販売活動を開始。同年、新井領一郎が、実兄星野長太郎から輸出された群馬県水沼製糸所の生糸をニューヨークの生糸仲買商リチャードソン(B. Richardson & Sons)に直売。外国人居留地外商を経由せずに日本人が初めて生糸の直輸出を実現した。1878年(明治11年)、生糸の輸入販売拠点の屋号を「佐藤・新井商会」と改めて新規開設した専売店に移す。1881年(明治14年)、横浜同伸会社の取締役ニューヨーク支店長に就任。
  • 1893年(明治26年)、横浜生糸合名会社(後に三菱商事に吸収合併)を創業し同社専務(後に会長)に就任。同年、森村豊とのパートナーシップで生糸輸入販売会社「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)を資本金10万ドルで設立。1901年(明治34年)アメリカ絹業協会(Silk Association of America)の取締役(Board of Governors)に選任。新井はアメリカ最大の生糸輸入業者としての地位を固め、1906年(明治39年)、日本からアメリカに輸入された生糸総量(70,241ベール)のうち約36パーセント(25,466ベール)を取扱った。(1ベールは60kg相当)
  • 1905年(明治38年)、日米のビジネスマンの交流を促進し関係改善図る目的で日本クラブ(The Nippon Club)創設に参画。1907年(明治40年)、日米友好促進と日本文化の発信・交流拠点としてニューヨークのジャパン・ソサエティ (Japan Society)設立に注力し評議会メンバーに選任。

業績

  • 外国人居留地外商を経由せずに日本人として初めて生糸の直輸出を実現した。生糸は、開港後日本の外貨を得る重要な輸出品で、養蚕業製糸業は基幹産業であった。
  • 長い間、アメリカの生糸市場の開拓・拡大に携わり、日米貿易の先駆者の一人となった。
  • 民間人として初めて日米間の相互理解や信頼向上、交流促進に取り組み、明治期に日米友好関係の構築に尽力した。
  • アメリカにおける初期在住日本人の社会的地位向上に寄与した。

顕彰・栄典

  • 1907年(明治40年)、大日本蚕糸会より第4回蚕糸功績賞を受賞。金賞牌授与。
  • 1924年(大正13年)、正六位に叙位。
  • 1924年(大正13年)、日本産業協会が功労表彰。
  • 1925年(大正14年)、大日本蚕糸会より第10回恩賜賞を受賞。
  • 1928年(昭和3年)、勲六等瑞宝章を受章。
  • 1939年(昭和14年)、勲四等瑞宝章を追贈。
  • 2005年(平成17年)、群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)が名誉村民の称号を追贈。

系譜・家族

実兄星野長太郎は、群馬県初の民間洋式器械製糸所である水沼製糸所の設立者で、元帝国議会衆議院議員。妻田鶴は、元山陽鉄道社長・会長の牛場卓蔵の娘。息子の新井米男は、元東京海上火災保険会社(現・東京海上日動火災保険)アメリカ支社現地代表、ジャパン・ソサエティ(Japan Society)元副会長、元ニューヨーク山一證券会社取締役会長を務めた。娘美代は松方正義の息子松方正熊に嫁いだ。美代(松方ミヨ)はアメリカ東海岸で生まれた帰国子女第一号といわれている。孫の松方春子は、元駐日本アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーの妻ハル・松方・ライシャワー。孫の松方種子は、西町インターナショナルスクールの創設者。息子新井米男の妻盈(みつ)の父岡部長職は、岸和田の旧藩主で子爵、東京市長などを経て司法大臣を務めた。

年譜

  • 1855年(安政2年):上野国(上州)勢多郡水沼村(後の群馬県勢多郡黒保根村、現桐生市黒保根町)に星野彌平(星野家10代七郎右衛門)の六男として誕生。幼名は良助。母はヨシ。父彌平は名主(村役人)であったが、代々、岩鼻代官所管下の天領山中入(さんちゅういり)18ヵ村(後の勢多郡黒保根村・東村山田郡大間々町)における郡中取締役(代官所と村々の間に立って18ヵ村を支配する役儀)を拝命するとともに、同管下の足尾陣屋との深い関係から足尾銅山吹所世話役(幕府直営の足尾銅山を資金面から支援する役儀)を拝命した。その上、幕府勘定所とも緊密な関係を築いて幕領支配の一翼を担うまでの存在となり、代々、18ヵ村の年寄役、苗字帯刀御免で給人格の待遇に処せられた。星野家は上野国一国を代表する豪農であり、516反(154,800坪)の土地、持高(石高)にして300石余を有していた。事業は、地主経営以外にも酒造や金融、樹培育売却、鉱山経営、廻船業(東北・関東間の穀物、海産物、肥料等の売買および輸送)などにも及んでいた。曾祖父耕平(星野家8代七郎右衛門朋存)は、1816年(文化13年)に老中勘定奉行の裁可の下、江戸幕府(第11代将軍徳川家斉)より初めて苗字帯刀を許され、祖父長兵衛(星野家9代七郎右衛門朋寛)以降が代々受け継いだ。
  • 1861年文久元年):花輪宿医師長谷川元寿の寺子屋にて漢書、習字を修める。その後、水沼村実家にて兄弟・親族とともに招聘した中山耕雲より漢籍を修業。
  • 1866年慶応2年):隣村、下田澤村鹿角(現・桐生市黒保根町)の新井傳右衛門の子である新井系作の養子として入籍。名を新井領一郎と改める。新井家は、桐生の絹織物業者などに生糸を販売する問屋であった。領一郎は、入籍後も実家星野家を離れることなく新井家には移り住まなかった。
  • 1868年(慶応4年):戊辰戦争の際、会津藩鎮圧に向かった官軍東山道総督府の先鋒隊参謀祖式金八郎一行約200名)に水沼の星野彌平一族(36名)が会津藩幇助の嫌疑を受けて捕まり、処刑すると脅かされた。父彌平や兄長太郎のみならず新井領一郎も含め血縁の者(7名)は縛られ、片鬢にされて数珠つなぎで館林城下まで引致、土地財産の差し押さえに処せられたが、父彌平はあくまで無実を主張した。新政府軍側に立つ館林藩大名の仲裁や、星野家親戚筋にあたる武蔵国幡羅郡下奈良村(現・埼玉県熊谷市)の豪農吉田市右衛門の依頼による寺島宗則勝海舟の総督府に対する釈放要請などにより嫌疑が晴れ、東山道総督府は冤罪証を出して星野一族は釈放された。
  • 1869年(明治2年):初めて東京に出て、芝愛宕伊勢崎藩士鈴木昇より漢籍を学ぶ。
  • 1871年(明治4年):水沼に戻った領一郎は、養父新井系作の下で生糸および販売にも従事。
  • 1871年(明治4年):星野家(実兄長太郎)が輸出に意欲を燃やしていることもあり、同年設立された高崎藩英語学校の一期生50人の1人に選ばれて英語の勉強を始めた。級友に内村鑑三尾崎行雄がいた。前年、速水堅曹により日本初の民間洋式器械製糸所である藩営前橋製糸所が前橋に開設され、兄星野長太郎の新たな製糸所設立構想と生糸輸出に対する関心が一層高まった。
  • 1872年(明治5年):生糸の直輸出実現を目指す兄星野長太郎の強い勧奨もあり、同年は高崎の小泉篤英学塾で、1873年(明治6年)から伊勢山田の度会英語学校でそれぞれ英学を修業。伊勢山田に行く際、水沼から東京までは徒歩で、東京(新橋)から横浜までは開通したばかりの鉄道、横浜から伊勢までは蒸気船を利用。
  • 1874年(明治7年):東京に戻り、浅草の化成社、開成学校などで英語を学んだ。
  • 1874年(明治7年):星野長太郎は、前橋藩士であった速水堅曹から器械製糸技術を習得し、日本初の民間洋式器械製糸所となる水沼製糸所を設立し開業。
  • 1875年(明治8年):星野長太郎は速水堅曹の話から、ニューヨークより一時帰国中の佐藤百太郎佐倉順天堂佐藤泰然の孫)が内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力を得て推進していた米国商法(商業)実習生派遣計画のことを知り、熊谷で速水と共に佐藤百太郎と会合し、熊谷県(現・群馬県)の権令楫取素彦とも話をした。長太郎は佐藤の計画に賛同し、念願である生糸直輸出実現を確かなものにするため弟領一郎をアメリカへ派遣することを決意した。
  • 1875年(明治8年):星野長太郎は、新井にアメリカ渡航に先立ち英学・簿記を学習するよう助言した。新井は、森有礼の構想に基づき勝海舟の支援で設立された銀座尾張町(現中央区銀座6丁目)の商法講習所(現・一橋大学)に一期生として入学。アメリカ人教師W.C.ホイットニーより簿記を学んだ。授業は全部英語で行われた。
  • 1876年(明治9年):新井領一郎は群馬県令楫取素彦の後押しにより、佐藤百太郎が計画した米国商法(商業)実習生の一人に選ばれた。新井は、渡航前に楫取素彦夫妻を挨拶のため訪ねたが、夫人(吉田松陰の妹寿子)より吉田松陰の形見である美しい短刀を渡された。3月10日午後5時、佐藤百太郎に引率されて森村豊(森村組(後の森村商事)を代表して雑貨)、伊達忠七(三井家を代表して陶器・美術品)、増田林蔵(狭山茶)、鈴木東一郎(丸善代表で薬品・雑貨)ら実習生4人と共に横浜から5年前完成した新鋭蒸気船オーシャニック号RMS Oceanic)で出航。上等船客41人と下等船客876人、乗組員130人を含め1,047人が乗船。他の官費留学生(1等船客)とは違い自費渡航のため、領一郎だけは3等船客として船窓はなくハンモック3段の船室に日本人31人の他に中国人苦力ら845人と一緒に乗り込んだ。見るに見かねた佐藤が途中で交渉し、上等切符を半値で手配してもらった。3月26日午後4時にサンフランシスコに到着。同地からは7年前に全線開通した最初の大陸横断鉄道であるセントラル・パシフィック鉄道CPRR)(後にユニオン・パシフィック鉄道 UP)に吸収)の最下クラスの切符(63.75㌣)を買い、オマハ経由で12日間かけて4月10日、ニューヨークに到着。渡航時に生糸直輸出のため兄星野長太郎が経営する水沼製糸所の生糸(器械糸)と桐生織、麻糸(富岡近郊産出)の見本も携行。
  • 1876年(明治9年):新井は、ニューヨークにある佐藤百太郎の「日本米国用達社」(Japanese American Commission Agency)(1879年「佐藤組」に改組)を拠点に生糸の販売活動を開始。生糸輸出の重要性を認識して動いていた在ニューヨーク日本副領事(領事はまだ任命されていなかった)富田鉄之助(アメリカ絹業協会名誉理事を兼務)の紹介状と水沼製糸所の生糸見本を携え、生糸輸入業者や生糸仲買商、地方の絹紡績会社などを訪問。最初に訪れたのは、マサチューセッツ州ホリオークのウィリアム・スキナー(William Skinner)であったが、売込みは失敗に終わった。スキナーは、かつてロンドン経由で輸入した日本製生糸の束を領一郎に示し、増量目的で混入された金属や異物を見せ、二度と騙されたくないので領一郎に出て行くように言った。
  • 1876年(明治9年):新井は、初めて有力な生糸仲買商B.リチャードソン(B. Richardson & Sons)との間でポンド当たり6ドル50セントで総量532ポンド(400で240kg相当)の生糸取引契約を成約。星野長太郎は、この契約のため初めて水沼製糸所の器械糸400斤を輸出し、新井領一郎がリチャードソンに引き渡した。契約後の急激な相場高騰で2,000ドル相当の巨額な損失が見込まれたため、輸出前に日本では値上げ協議が行われ、星野長太郎は領一郎に対して手紙で価格の再交渉を求めた。新井は契約を取り消すことを断り、この注文には自分の名誉と取引の将来がかかっていると兄に返事を書き、結局は長太郎が折れた。新井は、買手に対して誠意を示し自分の信用を守るため安い契約価格を維持したが、最終的には「買手の好意(申し出)」によりポンド当たり1ドル高で販売。この取引により、外国人居留地外商を経由せずに日本人が初めて生糸の直輸出を実現した。同時に、それまでのインド洋・欧州経由ではなく、日本初の太平洋横断によるアメリカへの生糸直輸出を実現した。積み荷は横浜からサンフランシスコ行きのシティ・オブ・ペキン号に船積み。外国銀行が利用できず日本の外国為替銀行もない状況下で、直輸出の荷為替代金回収の手続きは非常に複雑で、具体的実務は、在ニューヨーク領事館と日本の商務局、商社(後に佐藤組を引き継いだ日本商会が関与)などを介して開始された。星野長太郎の損失は巨額であったが、買手は1ドルの値上げで領一郎の確かな契約履行とその誠実さに報いた。新井領一郎はこの取引が契機となって、後日ニューヨークの生糸取引業界で日本人として絶大な信用を獲得することになった。
  • 1876年(明治9年):アメリカ建国100周年記念となるフィラデルフィア万国博覧会を見学。新井はアメリカの急速な経済発展による豊かな生活や絹織物業の機械化進展による生糸需要の増大が、生糸輸出に千載一遇の機会をもたらすことを認識。明治政府も輸出振興・外貨獲得を図るため、西郷従道を最高責任者として外国政府最大の予算で出展し、多数の大工を派遣し日本家屋のパビリオンを建てた。日本茶陶磁器の工芸品やその他伝統的産品に加えて、速水堅曹を審査官として最優秀の生糸や絹織物等の展示を行った。特に絢爛豪華な有田焼伊万里焼)の一対の大きな色絵磁器花瓶は注目を集め、同博覧会の金牌賞を獲得した。日本の出展物は後進国と見なされていた日本への関心と評価を非常に高めた。ニューヨーク・ヘラルド紙の記者は、「ブロンズ製品や絹ではフランスに優り、木工、家具陶磁器で世界に冠たる日本をなぜ文明途上と呼べるだろうか」と記事に書いた。
  • 1876年(明治9年):英語力向上のためニューヨーク市内のブルックリン・ハイツにあるプリマス・インスティテュート(Plymouth Institute)に通う。
  • 1877年(明治10年):ニューヨークのアーヴィン・トラスト銀行に初めて銀行口座開設。その後、銀行との取引は60数年続いた。
  • 1877年(明治10年):新井の提案により星野長太郎が品質改善させた群馬県産の改良座繰糸(今までの提(さげ)造りからイタリア糸と同じ捻(ねじり)造りにして更に改良)を初めて販売。新井領一郎の年間生糸売上、50千ドル(66ベール)(1ベールは133¼ポンドで約100斤=60kg相当)を達成。日本での亘瀬会舎や精糸原舎設立などによる「優等糸」の生産・供給力の増強を踏まえて、新井はニューヨークの生糸輸入商だけでなく、地方の一流絹織物業者とも直接取引を成立・拡大した。コネチカット州サウス・マンチェスターチニー・ブラザーズ社Cheney Brothers)はアメリカの最初で最大の絹織物業者でもあり、領一郎から大量に器械糸や改良座繰糸を買い付けた。同社社長はアメリカ絹業協会会長を務めていた。ニュージャージー州パターソン(別名:シルク・シティ)のペルグラム&マイヤー社(Pelgram & Meyer)は絹織物会社で、パターソンの業者の中では最初に水沼製糸所の製品の品位を認め、星野長太郎にわざわざ手紙を出した。新井が最初の直輸出で売り捌いたB.リチャードソンはニューヨークの生糸仲買商で、アメリカ絹業協会(1872年設立)の創立者の一人で理事。前年の初荷である水沼製糸所の器械糸(4ベール)の最終出荷先はパターソンのデクスター・ランバート社(Dexter, Lambert & Co.)といわれている。ウィリアム・スキナー(William Skinner)はチニー・ブラザーズ社と並んで最大規模を誇る絹織物会社で高級織物を生産。明治初期の日本製粗悪生糸にさんざん騙され不信感で固まっていたが、後に新井の信用と扱う生糸品質の優秀性を認め前橋精糸原社の改良座繰糸を一手に引き受けた。
  • 1878年(明治11年):生糸販売の拠点を「日本米国用達社」から屋号を「佐藤・新井商会」(Sato, Arai & Company)と改めて新規開設した専売店に移した。販売助手として佐藤百太郎の下で働いていたドイツ移民のフォン・ブリーセン(Richard von Briesen)を雇い入れたが、彼は永年勤続のパートナーとなった。新井領一郎の年間生糸売上、115千ドル(184ベール)。この頃、アメリカの絹織物業は発達し始めてから10年ほどの段階で、まだ手織機が主体。品質低下していた中国糸に比べ品質が高く均一である改良座繰糸に対する評価は高く、需要も高く持続した。1880年代後半になると機械化が進展し、機械糸しか使用できない力織機が普及・急増。
  • 1878年(明治11年):商売も順調に伸びたので家賃は高いがより快適なダドリー夫人経営の下宿屋に移った。マンハッタンの3番街と9丁目の角、東55番地に所在。
  • 1878年(明治11年):新井領一郎のパートナーである佐藤百太郎は事業困難に直面したため、アメリカ人妻を連れて日本に帰国。新井と同時期に渡米した森村豊は、佐藤からは独立して6番街238番地に日の出商会森村ブラザーズ(陶磁器雑貨の輸入小売会社)を設立。福沢諭吉の推薦により慶應義塾を卒業した村井保固を支配人として迎え入れた。村井は後に新井と同じ下宿屋に居住することを契機に、新井と家族ぐるみで親交を深めた。
  • 1879年(明治12年):新井領一郎の年間生糸売上、146千ドル(222ベール)。
  • 1880年(明治13年):アメリカ渡航後、初めて一時帰国。兄星野長太郎らにアメリカの市場や需要動向・販売状況について報告した。市場に適した生糸生産の重要性と今後の生糸輸出拡大策等について協議。設立された日本初の直輸出専門商社である横浜同伸会社の取締役ニューヨーク支店長に就任。速水堅曹が同社取締役社長、実兄星野長太郎は取締役会長に就任。
  • 1880年(明治13年):横浜正金銀行がロンドン支店ニューヨーク出張所を開設。直輸出の荷為替代金の回収手続きが軽減された。
  • 1881年(明治14年):再び一時帰国した。領一郎は横浜同伸会社ニューヨーク支店を開設。実質的には、全てを森村豊とのパートナーシップで設立した生糸輸入販売会社「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)で運営。新井は佐藤百太郎とのパートナーシップ「佐藤・新井商会」(Sato Arai Company)を解消。
  • 1884年(明治17年):牛場卓蔵の娘田鶴(18歳)と日本で結婚。田鶴はミッションスクール東洋英和女学校で洋風の教育を受け英語を学んだ。牛場卓蔵は慶應義塾出身(第1回卒業生)の内務省官僚で、後に山陽鉄道社長、衆議院議員。披露宴の来賓として招かれたのは、官員では楫取素彦富田鉄之助神鞭知常、吉田市十郎、速水堅曹らで、紳士では福澤諭吉小幡篤次郎相馬永胤、村田一郎らであった。
  • 1886年(明治19年):アメリカ絹業協会(Silk Association of America)の機関誌、「アメリカン・シルク・ジャーナル」(American Silk Journal)(10月号)が、ニューヨークで知名度の高まった新井領一郎の横顔を特集で紹介。高品質の生糸を販売して信用を高めた日本人生糸輸入商として新井の経歴や仕事ぶりを詳しく説明。それによると、「良質な生糸を持ち込んだ新井の生糸取扱い量は、今やアメリカの生糸需要の5割に及ぶ。粗悪故10年前は88ベール程度だった日本生糸の輸入が今や15,000ベールに達したが、これは新井の努力に依るところが多である。商人として確かで言行品行共に信頼にたる人物で、紳士として万事鄭重、懇切、言行により築いた個人の信用は、日米両国間の信頼関係を一層高めるものだ。」と評し、彼を絶賛した。水沼製糸所の写真に加えて銅版画で新井の肖像を掲載。
  • 1886年(明治19年):実父星野彌平(63歳)が死去。この年、日本からのアメリカ向け生糸輸出がヨーロッパ向け生糸輸出を上回った。
  • 1887年(明治20年):中国に加えて日本からの生糸輸入の飛躍的増大のため、1870年代後半よりサンフランシスコやシアトル等の埠頭からニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケン(ニューヨーク市マンハッタン島ハドソン川対岸のターミナル駅 Hoboken)まで、「シルクトレイン」と呼ばれた専用の急行貨物列車が直行で運行された。10~12両で1列車が編成され、強盗を避けるため20人以上の武装した護衛が同乗した。1列車で輸送する生糸の価値は600万から800万ドルに達し、金利や貨物保険料だけでも莫大であった。生糸輸送は大陸横断鉄道各社にとって最大の収益源で人員輸送より優先された。生糸は入港船上から直接生糸専用列車に搬入され3時間以内で発車した。当初は大陸横断鉄道による生糸輸送はサンフランシスコ発が唯一の輸送ルートで、ユニオン・パシフィック鉄道UP)が利用された。所要時間は90時間以上あったが80数時間まで短縮された。シアトル(ピュージェット湾沿岸)はサンフランシスコよりも横浜からの距離(航海日数)が短いため、1883年以降よりノーザン・パシフィック鉄道NP)やグレート・ノーザン鉄道GN)等が競い、船会社と緊密に連携して海陸一貫輸送を開始した。1887年には海上輸送日数の更に短いバンクーバーからもカナディアン・パシフィック鉄道CPR)が時間を争う輸送競争に参入し、やがて所要時間をバンクーバー発で60数時間まで短縮した。1880年代には北米で月間20本程度の専用列車が運行された。太平洋横断航路の船会社としては、当初はパシフィック・メール汽船会社、オクシデンタル&オリエンタル汽船会社が、後にカナディアン・パシフィック鉄道(船舶部門)の3社が競い合った。1896年(明治29年)以降は日本郵船や東洋汽船なども参入した。
  • 1889年(明治22年):大蔵省は明治22年度限りで御用外国荷為替の廃止を決めたが、横浜同伸会社にとって御用外国荷為替による多額の輸出資金確保は不可欠であった。横浜同伸会社の取締役ニューヨーク支店長である新井は、ニューヨークを訪れた実兄星野長太郎と同社存続上の直輸出資金調達問題を協議。現地支店幹部が打ち出した起死回生策は、現地法人化(現地供託金50万円)によるアメリカでの低金利の資金調達であったが資金難から困難が見込まれた。
  • 1889年(明治22年):長男米男が誕生。アメリカ東海岸で生まれた最初の日本人といわれている。後にハーヴァード大学を卒業。岡部盈(みつ)と結婚。新井米男の妻盈は学習院卒業後結婚し間もなく渡米したが、アメリカの生活に溶け込みニューヨーク社交界の花形になった。盈の父岡部長職は岸和田の元大名で男爵。外交官、東京市長を経て司法大臣を務めた。新井米男の長男は新井領蔵で三世。
  • 1891年(明治24年):長女美代が誕生。後に男爵松方正熊と日本で結婚。正熊は、元老公爵松方正義の八男。美代(松方ミヨ)はアメリカ東海岸で生まれた帰国子女第一号といわれ、日本の生活習慣への適応に苦労した。美代の子(新井領一郎の孫)に西町インターナショナルスクールを創設した松方種子やハル・松方・ライシャワー(夫は元駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワー)らがいる。
  • 1891年(明治24年):アメリカ絹業協会(Silk Association of America)の書記長B.リチャードソン(B. Richardson)が、在ニューヨーク日本副領事鬼頭悌二郎宛てに書簡を送り日本製生糸の重大な品質問題(生糸品質の不均一性等)を提起し善処要請したが、この中で新井領一郎が代表する横浜同伸会社については品質向上に大いに成果を挙げていると称賛。
  • 1892年(明治25年):10月、森村市左衛門と新井領一郎のパートナーシップで日本からの生糸輸入会社である森村・新井商会(Morimura, Arai & Company、住所:109 Prince St.)を設立。この年、従業員は8人でスタートし2,145ベールの生糸を輸入。
  • 1893年(明治26年):日本に一時帰国。
  • 1893年(明治26年):横浜同伸会社は売上の著しい伸張に伴い、新井領一郎の報酬の歩合制から給与制への移行を図ろうとした。新井はこれに同意せず同社取締役ニューヨーク支店長を辞任。
  • 1893年(明治26年):森村豊の兄である森村市左衛門が横浜の生糸売込商茂木惣兵衛原善三郎らと諮って横浜生糸合名会社(資本金50万円)を設立し、この時新井領一郎は専務取締役に就任。これを契機に新井は実兄星野長太郎とは別に新たな事業展開に踏み出した。新井の妻田鶴の弟牛場徹郎は同社神戸支店長に就任。後に新井は会長に就任。同社は横浜生糸綿花株式会社(資本金375万円、新井の他に取締役として森村開作、村井保固、渋沢義一、日比谷半左衛門ら)に発展したが価格暴落により莫大な損失を被り、三菱商事直系の日本生糸会社に吸収合併された。
  • 1893年(明治26年):森村市左衛門との共同出資による森村・新井商会(Morimura, Arai & Company)に、村井保固とフォン・ブリーセンもパートナーとして加えた。森村と新井は各3万4千ドル、村井とフォン・ブリーセンは各1万6千ドル出資し、合計10万ドルでスタート。新井とフォン・ブリーセンの二人は常勤で生糸販売に専念。同商会は横浜生糸合名会社のニューヨーク支店として機能。
  • 1893年(明治26年):コネチカット州の避暑地でもある高級住宅地オールドグリニッチのリバーサイド(Riverside, Old Greenwich)に広大な敷地を購入し、当時アメリカで流行したクイーン・アン・スタイルの三階建て建物を新築した。コーン型の丸屋根に尖塔を併せ持ち、室内には随所に和風装飾を取り入れて最新設備を備えた豪華な邸宅であった。親しい友人となった村井保固夫妻も新井宅の隣に自宅を建てて移り住む。村井夫人は下宿屋のダドリー夫人の妹キャロライン・ベイリーで、新井の妻田鶴に新婚当初、同じ下宿屋に住んでいた時から英語や生活・習慣等について親身になって教えた。新居はロング・アイランド湾に面し、自然に恵まれたマイアナス川(Mianus River)河口沿いの夏季保養地内に所在。
  • 1893年(明治26年):自宅近隣のリバーサイド・ヨットクラブRiverside Yacht Club)に入会。隣の村井保固も同年に入会。同クラブのメンバーの一員であるリンカーン・ステファンズ(Lincoln Steffens)などの著名人や上流社交界の人々との交際を拡大。妻田鶴は川の対岸の芸術家の仲間たちコスコブ・アートコロニー(Cos Cob Art Colony)の交流拠点であったホーリーハウスBush-Holley House)に集まる婦人達に生け花を教授。この頃、有田焼の陶磁器輸出でアメリカに派遣されたものの画家志望に転じた片岡源次郎(アメリカ印象派の第一人者と言われるジョン・トワックマンに師事。名前の英文表記:Genjiro Yeto)もホーリーハウスを拠点に活躍を始め、コスコブの人々にジャポニスムの大きな影響を与えた。
  • 1893年(明治26年):星野長太郎の養子星野文彌はアメリカでの活躍が期待されニューヨークに派遣され、当時の代表的なビジネス・スクールであったイーストマン・ビジネス・カレッジ(Eastman Business College)に入学した。その後1901年(明治34年)ニューヨークで若くして病死した。
  • 1896年(明治29年):この年、三井物産がアメリカ向けに生糸輸出を開始した。日本郵船は初めてのシアトルへの三池丸による寄港を契機に、同年日本政府が公布した航海奨励法の補助金交付を受けてシアトル航路を開設した。生糸専用船艙(シルクルーム)を備えた船を数隻配備したが船舶規模は比較的小さかった。日本郵船はシアトルからシカゴまでの大陸横断鉄道を持つグレート・ノーザン鉄道GN)と海陸一貫輸送の提携をした。
  • 1897年(明治30年):横浜生糸合名会社がイタリア、フランス、上海広東に代理人をおいたのを契機に、新井は欧州・清国の生糸取引を開始。
  • 1898年(明治31年):浅野総一郎渋沢栄一の協力の下、安田善次郎等からの出資を受けて創立した東洋汽船(後に客船は日本郵船へ吸収合併、貨物船部門は日本油槽船へ吸収合併)がサンフランシスコ航路を開設し、生糸専用船艙(シルクルーム)を備えた亜米利加丸が就航した。東洋汽船はパシフィック・メール汽船会社、オクシデンタル&オリエンタル汽船会社とともに太平洋横断航路の共同輸送契約を結び、更に、ユニオン・パシフィック鉄道UP)、シカゴ・ノースウェスタン鉄道C&NW)と連携して大陸横断輸送を行っていたサザン・パシフィック鉄道SP)と海陸連携輸送契約を結んだ。
  • 1899年(明治32年):新井は、ニュージャージー州ノースフィールド・リンク現・アトランティック・シティ・カントリー・クラブ)で初めてゴルフをした。日本にゴルフを広めた日本人初のゴルフ・プレーヤーの一人といわれた。長年のパートナーであった森村ブラザーズの森村豊が日本に一時帰国中、胃がんで若くして死去(45歳)。兄の森村市左衛門に衝撃を与えた。
  • 1900年(明治33年):1880年代後半から機械糸しか使用できない力織機が普及・急増。この年、機械糸の割合が50%を越え、1915年には90%超に達した。
  • 1901年(明治34年):アジア人として初めてアメリカ絹業協会(Silk Association of America)の取締役、ボードオブガバナーズ(Board of Governors)の一員に選任された。この年以降、同職を重任。この年初めてアメリカを訪問した渋沢栄一をニューヨークで迎え、高峰譲吉らと会食を共にした。
  • 1901年(明治34年):森村市左衛門が異母弟森村豊と実子長男明六の2人の相次ぐ他界を契機に設立した社会貢献事業団体である森村豊明会の初期理事として大倉孫兵衛、廣瀬実榮、村井保固、森村勇、永井儀三郎、諸葛小弥太らと共に名を連ねた。
  • 1902年(明治35年):この頃から本格的にゴルフを始めた。病気療養のためノースカロライナ州パインハーストに滞在中によくプレーして腕を磨いた。
  • 1903年(明治36年):横浜生糸合名会社を通して実質的に日本初となるアメリカ産棉花の輸入を開始。日本における紡績業の発達により原料となる棉花輸入が増大。綿糸・綿布の生産が増加し日本の輸出品として急激に伸びた。
  • 1904年(明治37年):グレート・ノーザン鉄道GN)は大陸横断鉄道の輸送量の飛躍的拡大を図るため、自らグレートノーザン汽船会社(Great Northern Steamship Co.)を設立し、シアトル港と横浜港間に航路を開設した。この年から相次いで太平洋航路最大(2万㌧クラス)の汽船2隻(日本郵船の船の5倍規模の船)を投入したが、主な狙いはアメリカからの小麦輸出と日本からの生糸輸入の貨物の確保であった。
  • 1905年(明治38年):高峰譲吉や村井保固とともに、日米のビジネスマンの交流を図る目的で日本クラブ(The Nippon Club)設立のために尽力。初代会長は高峰譲吉。アメリカ人と交流する社交クラブとして機能し、相互理解の促進と日本人の地位向上に貢献した。日本クラブ開設を契機に、アメリカ人も初めて日本人にいくつかの社交クラブやスポーツクラブを開放するようになった。新井は同クラブを通して日本人メンバーにゴルフを広めた。当時ニューヨークの日本人の間では、高峰譲吉(1890年妻子と共に再渡米、妻はアメリカ人)、新井領一郎、村井保固の三人は三元老と呼ばれていた。
  • 1906年(明治39年):この年、森村・新井商会(Morimura, Arai & Company)一社で、日本からアメリカへの生糸総輸入量(70,241ベール)のうち約36パーセント(25,466ベール)を取扱。日本商社(34社)の日本以外からの輸入分の取扱いを合わせると、実に5割内外が同商会に集中し、新井領一郎はアメリカ最大の生糸輸入者となった。森村・新井商会の従業員数は最初の8人から22人に増加。フォン・ブリーセンの他、伊藤冨次郎、荒川新十郎、佐藤永孝、山田松三郎など横浜生糸綿花株式会社の社員も活躍した。
  • 1907年(明治40年):大日本蚕糸会総裁貞愛親王より第4回蚕糸功績賞を受賞し、金賞牌が授与された。
  • 1907年(明治40年):日露戦争の戦勝気分高揚の中、日米友好促進と日本の文化芸術、科学、社会等に対するアメリカ人の理解促進を図るためニューヨークのジャパン・ソサエティ(Japan Society)設立に注力。日露戦争の英雄、伊集院五郎海軍中将と黒木為楨将軍のニューヨーク訪問を記念するパーティの席上、アメリカ各界の著名人が多数出席する中、設立宣言が行われた。初代理事長はニューヨーク市立大学総長ジョン H. フィンレー、副理事長は関税法務弁護士リンゼイ・ラッセル。名誉理事長は青木周蔵駐米大使、名誉副理事長はグラント元大統領の息子、フレッド・O・グラント元帥と高峰譲吉。新井領一郎と村井保固は評議会メンバーに選任。
  • 1908年(明治41年):実兄星野長太郎(63歳)が東京市麹町区で死去。
  • 1909年(明治42年):日本クラブ(The Nippon Club)の新井領一郎ら「三元老」が中心となって、渋沢栄一を団長としたアメリカ大実業視察団(50数名)の受け入れ準備と3ヵ月間に亘る各界要人との会見や主要都市・企業訪問などの橋渡しを果した。ニューヨークでは視察団の盛大な歓迎晩餐会をロータス・クラブ(The Lotos Club)で開催し、アメリカ各界の著名人を招待した。
  • 1909年(明治42年):新井は、日本銀行代理店監査役としてニューヨークに赴任した井上準之助に初めてゴルフを教えた。井上がすっかりゴルフの魅力に取りつかれたため、井上の帰国後、初の日本人向けゴルフクラブである東京ゴルフクラブの設立に至らしめた。
  • 1909年(明治42年):この年、日本は清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。
  • 1910年(明治43年):この年、アメリカはイタリアを抜いて世界第一の絹糸製品生産国になった。アメリカは全世界の生糸輸出の36%を輸入し、1937年迄には58%を輸入した。
  • 1915年(大正4年):生糸貿易の増大により横浜生糸合名会社は株式を一般公開し、資本金500万ドルに増資。社名を横浜生糸棉花株式会社と改名した。数年後、更に増資を行い新井は新会社の会長に就任。
  • 1916年(大正5年):1914年のパナマ運河開通に伴い日本郵船がロサンゼルス経由でニューヨーク航路を開設。新造船龍野丸を就航させた。領一郎も日本との往復にこれを利用するようになった。
  • 1919年(大正8年):横浜正金銀行が出張所を昇格させニューヨーク支店を開設。この年、妻とともにクリスチャン・サイエンスに入会。
  • 1920年(大正9年):日本の生糸貿易が日本の総輸出額の三分の一に達した。この年、新井のビジネスマンとしてのピークに達した。
  • 1922年(大正11年):商品相場の下落に伴い、横浜生糸棉花株式会社は深刻な財政難に陥った。同社は横浜正金銀行の仲介により、三菱商事の子会社、日本生糸株式会社の傘下に入れられた。新井はニューヨーク日系人会名誉会員に推薦された。
  • 1923年(大正12年):関東大震災により、船積み待ちの大量の生糸(2,000ベール、1ベールは60kg相当)が横浜の倉庫で焼失した。無保険であったため新井は大損害を被った。
  • 1924年(大正13年):新井は正六位に叙せられた。
  • 1924年(大正13年):日本産業協会より功労表彰を受けた。
  • 1925年(大正14年):大日本蚕糸会総裁載仁親王より第10回恩賜賞を受賞。1920年代に、日本は全世界の生糸輸出の85%を占めるまで拡大し、アメリカは全世界の生糸輸出の90%を輸入した。
  • 1927年(昭和2年):新井は、森村・新井商会(Morimura, Arai & Company)を三菱商事子会社、日本生糸株式会社の経営に委ねた。新井は相談役として勤めを果たした。アメリカの絹織物業界での知名度が高かった英文社名はそのまま残された。
  • 1928年(昭和3年):勲六等瑞宝章を受賞。
  • 1929年(昭和4年):この年、アメリカの生糸輸入金額は396百万㌦のピークを記録し、日本は実にその95㌫を供給していた。日本郵船パナマ運河経由で横浜港からニューヨーク港までの直行航路を開設した。その後世界恐慌による生糸価格の暴落を背景に生糸輸送の主力も従来の大陸横断鉄道から、輸送時間はかかるものの輸送費が低廉なこのルートへ移行し始めた。
  • 1930年(昭和5年): 大阪商船がニューヨーク直行航路を開設し、新造の高速ディーゼル貨物船畿内丸を就航させた。横浜港~ニューヨーク港間の所要日数を25日17時間30分とし、従来より約10日間も短縮して他社を圧倒した。
  • 1935年(昭和10年):新井は80歳を迎え日本への最後の帰国を果たした。生涯では合計90回、太平洋を横断。
  • 1935年(昭和10年):実兄星野長太郎(1908年(明治41年)死去)の後を継いだ長男星野元治と会い、一時途絶えていた生家星野家との関係を回復。この年、日本の生糸生産量はピークに達したがその直後から生産量の急減に襲われた。
  • 1939年(昭和14年):コネチカット州リバーサイド(Riverside, Old Greenwich)の自宅にて死去。84歳。葬式はニューヨーク市ブロンクス区のウッドローン墓地(Woodlawn Cemetery)で、スタンフォード市クリスチャン・サイエンス教会のリーダーの手により挙行された。領一郎の死を悼んでニューヨーク商品取引所は葬儀の行われる時刻に黙祷を捧げた。昭和14年(1939年)、勲四等瑞宝章が追贈された。

参考文献

  • 『紐育の日本』 編者:日米通報社、1908年刊
  • 『紐育日本人史』 著者:水谷渉三、1924年刊
  • 『慶應義塾百年史』中巻(前) 編者:慶應義塾、 出版:慶應義塾、1960年刊
  • 『紐育日本人発展史1・2』日本人海外発展史叢書 紐育日本人会編、PMC出版、1984年刊 (『紐育日本人発展史』 水谷渉三編、1921年刊の復刻版)
  • 『絹と武士』 (原著名:Samurai and Silk) 著者:ハル・松方・ライシャワー、訳者:広中和歌子、文藝春秋、1987年11月刊
  • 『日米生糸貿易史料』 編者:加藤 隆、阪田安雄ほか、近藤出版社、1987年刊
  • 『明治日米貿易事始―直輸の志士・新井領一郎とその時代』 著者: 阪田安雄、豊明選書、出版:東京堂、1996年刊
  • 『近代群馬の民衆思想 経世済民の系譜』 著者:高崎経済大学附属産業研究所編、 出版:日本経済評論社、2004年刊
  • 『渋沢栄一の事績を学ぶ百年前の日米実業団相互訪問』 編者:木村昌人、渋沢栄一記念財団刊、青淵2008年10月号~12月号[1]
  • 『絹先人考』シルクカントリー双書(3) 発行:上毛新聞社、2009年(平成21年)4月刊
  • 『国際ビジネスマンの誕生 日米経済関係の開拓者』 編著者: 阪田安雄、東京堂出版、2009年12月刊
  • 『Japanese American History』 著者:Brian Niiya、出版:Japanese American National Museum、印刷:Checkmark Books
  • 『Finding Aid for the Arai Family Papers, 1877-1972』Online Archive of California[2]
  • 『Silk Trains of North America』 著者:Alberta Pioneer Railway Association 2010 [3][4]

関連項目

外部リンク