高峰譲吉

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テンプレート:Infobox Scientist 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年9月13日1854年11月3日) - 大正11年(1922年7月22日)は、日本の科学者実業家工学博士薬学博士。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。

経歴

幼少からアメリカ永住まで

1854年越中国高岡(現・富山県高岡市)御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた。母は造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)の娘で名を幸子(ゆき)と言う、後年の清酒醸造のの改良にも繋がっている。

1865年慶応元年)、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都兵学塾大阪緒方塾(適塾)に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。

1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年アメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。帰国後の1886年専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年結婚[1]1890年に渡米しアメリカへ永住することになる。

研究とビジネス

1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本のを使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、譲吉は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなりの怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、譲吉の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉の暗殺を試みた。その時譲吉は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは譲吉の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。

1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。

譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。

1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学院会員となる[2]。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。

1922年、この頃高峰譲吉はアメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、黒部川の電源開発による電気を利用したアルミニウム製造事業の推進に取り組んだ。

評価と志を継ぐ事業

生涯に亘り科学者、かつ企業人として、数々の国際的業績をあげてその生涯を全うした。1922年譲吉没後、正四位勲三等瑞宝章を授与。また、「ニューヨークタイムズ」は「光輝ある故高峰博士」と題した社説を掲載し、譲吉の業績を大きく称えた。

高峰譲吉博士顕彰会

1950年昭和25年)、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成され、1952年高峰賞を制定し、在米高峰家拠出の奨学金により10年間、その後更に10年間は在米マイルス製薬会社の高峰研究所取締役L.A.アンダーコフラー博士に引き継がれ、現在は顕彰会の事業費とも三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄っている。個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、2006年度(第56回)までの受賞者は742名にのぼり各界で活躍している。

107年目の名誉回復、2006年4月

アドレナリン1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三がウシの副腎から世界で初めて結晶化した。一方、エピネフリン抽出をした米国研究者が高峰譲吉は研究上の盗作を行ったと、事実誤認の非難をした事も災いし、また高峰譲吉は醸造学者であり薬学での業績が少なかったことなどの経緯もあり、ヨーロッパではアドレナリンと呼ばれる薬は日本と米国では、副腎髄質ホルモン「エピネフリン」と長らく呼ばれてきた。

しかし、高峰譲吉の業績に詳しくその著書もある菅野富夫北海道大学名誉教授)らが、日本は発見者高峰譲吉の母国であり、「エピネフリン」に代わり正式にアドレナリンの呼称として欲しいとの厚生労働省への要望が実り、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれる事となった。アドレナリンの発見およびエピネフリン参照。

その他

ワシントンD.C.ポトマック川にある美しい並木は、1912年に東京市が寄贈したが、高峰譲吉は寄贈の計画発案当初から参画、尾崎行雄東京市長らとともに実現に大きな役割を果たした。今日では寄贈を記念して毎年全米桜祭りが行われている。

菩提寺は寺町5丁目にある臨済宗国泰寺である。塀の瓦に高峰家の家紋「八ツ矢車」が彫られている。

梅本町(現在の大手町)にあった実家の離れが丸の内の黒門前緑地に移築されている。

また、高峰譲吉は後に自らの土地を高岡市に寄付、同市では生家跡を現在高峰公園として整備し、毎年同日時 生誕祭が行われている。

脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. キャロラインはアメリカ滞在中に譲吉が肝臓病の再発で倒れた時にイリノイ州ピオリアの自宅そばを通る汽車を止めて、大病院のあるシカゴまで運んでもらったことが有名。
  2. 『官報』第273号、大正2年6月27日(国立国会図書館デジタル化資料)