伊万里焼

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伊万里焼(いまりやき)は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。有田の製品のほか、三川内焼波佐見焼なども含む。[1]

概要

中国では紀元前から原初的な磁器が製造され、後漢時代(西暦25年 - 220年)には本格的な磁器が焼かれていたが、日本では中世までのやきものは陶器であり、磁器は輸入品に頼っていた。日本で初めて国産磁器の製造が開始されたのは17世紀、有田(佐賀県有田町)においてであった。

伊万里焼の文献上の初出は寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)である。同書に「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。有田、波佐見などの肥前の磁器は、近世には主な積み出し港の名から「伊万里焼」と呼ばれた(近世には「今利」「今里」とも書かれることが多かった)。有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになったのは、近代以降、に変わって鉄道が輸送の主力となってからのことである。研究者はいわゆる「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶことも多い。  伊万里とは「万里を渡り伊太利へ」当時中央ヨーロッパは神聖ローマ帝国を盟主としていた。蓋のついた壷には花柄(生薬)がついている。牡丹が多い。それは牡丹ピといって其の根の皮は消炎鎮痛の基剤だ。化学薬品ができる前は欧州人にとって貴重な医薬品だった。磁器の壺は蓋で密封され中身はインド洋の熱気にも耐えヨーロッパに送られ壷共々金1gより高い価格で取引された。中身は飲み干され今その入れ物が残っているわけだ。

歴史

佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂は、豊臣秀吉のいわゆる朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年 - 1598年)に参加し、朝鮮から多くの陶工を日本へ連行した。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。金ヶ江三兵衛が実在の人物であることは古文書等から確認されているが、元和2年(1616年)に初めて磁器を焼造したということは史料からは確認できない[2]。九州陶磁文化館の大橋康二らの窯跡調査によると、磁器が最初に焼造されたのは有田東部の天狗谷窯ではなく、有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯であり[3]、消費地での発掘調査などから、磁器製造の創始は1610年代であるというのが定説になっている。

1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。

初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。このことから、朝鮮から渡来の陶工が生産に携わったことが明らかである。一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来(中国出身の陶工作)のものであると考えられる。

1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。これらは、加賀石川県)の九谷が産地であると長年考えられていたことから「古九谷」と称され、現代の陶磁史では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」と称されている。

1640年頃からは鍋島藩が将軍家諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。この藩窯製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。

中国では1644年明王朝が滅亡。1656年にはにより遷界令が発せられて、商船の航行が禁止され、中国陶磁の輸出が一時途絶えた。このため、それまで中国製の磁器を買い付けていたヨーロッパ諸国が日本へ磁器を注文するようになり、オランダ東インド会社から大量の注文が舞い込んだ。中国製磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続した。

1670年代には、素地や釉薬が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになった。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称している。

1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。これを「古伊万里金襴手」と称し、この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。

金襴手様式

金襴手とは陶磁用語で(きんらんで)と読む。絵付した後,金を焼き付けて文様を表したもので,赤絵,色絵に施す金彩との配色が織物の金襴(金糸で文様を織り出した織物)と似ているところからこの名が出た。16世紀中ごろ中国江西省景徳鎮民窯で作られ発達、江戸時代中期に日本に持ち込まれ白磁をベースに赤地に金彩で文様を表す金襴手が流行した。福右衛門窯では現代的な転写技術に頼らず、脈々と受け継がれてきた伝統的な手法による作陶が行われており献上手古伊万里焼最後の担い手と言われている。

脚注

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参考文献

  • 青柳恵介、荒川正明『古伊万里 磁器のパラダイス』(とんぼの本)、新潮社、2009
  • 佐賀県立九州陶磁文化館監修『古伊万里入門』、青幻舎、2007
  • 矢部良明『世界をときめかした伊万里焼』、角川書店、2000
  • 矢部良明、小木一良監修『伊万里百趣』、里文出版、1993
  • 矢部良明監修『日本やきもの史』、株式会社美術出版社、1998

関連項目

  • 名称と定義については、佐賀県立九州陶磁文化館(2007, pp.6 - 7), 矢部(2000, p5)による。
  • 矢部・小木(1993, pp.110 - 112 該当部分執筆は村上伸之)
  • 青柳・荒川(2009, pp.28 - 29)