堀之内

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堀之内(ほりのうち)は中世日本における武士在地領主の館(たち・たて)を指す歴史用語。土居(どい)ともいう。館の周囲には通常、堀や盛り土による垣がめぐらされていたため、堀之内・土居などと呼ばれた。地名としての堀之内は、中世期のこの堀之内に由来している。(後述#地名および堀之内駅を参照のこと。)

概要

中世期の武士・在地領主は、ある者は国衙から郡司職郷司職保司職としての地位・権利を認められ、ある者は荘園領主本家本所)から荘官職に任じられ、またある者は幕府から地頭職を付与され、さらにある者は上記の複数の地位を兼職することにより、現地での所領経営・支配に当たっていた。現地経営・支配の本拠として、武士・在地領主は交通の要衝となる道や港津の近隣や展望のきく高台などに館を置いた。

館は、周囲に堀・土塀などが築かれた。館の規模は、1町(約100m四方)- 2町のものから、数十町に及ぶものまで様々あった。館の門では、郎党らが常に番をしており、簡単な櫓が門に併設される例もあった。館内部には、武家造と呼ばれる形式の母屋のほか、厩(馬小屋)や下人・所従の小屋が置かれた。さらに武芸の訓練のための馬場や弓場が設けられることもあった。館、すなわち堀之内の様子を今によく伝えるのが、『一遍上人絵伝』『男衾三郎絵詞』などの絵画史料である。これらの絵画史料から、館の前をたまたま通りがかった商人らが郎党に拉致され、武芸訓練として斬首される様子などをうかがい知ることができる。

堀之内・土居は、中世を通じて存続した。しかし、戦国大名による権力の一元化が進んだ戦国時代になると在地の武士たちは城下町へ集住させられるようになり、堀之内・土居は次第に消滅していった。

地名

日本各地には、堀之内地名が多く存在する。これらのほとんどは中世の館跡に由来している。堀之内は、堀の内、堀ノ内、堀内などとも表記される。以下、主な堀之内地名を例示する。

関連項目

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