ダンシングブレーヴ

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テンプレート:Infobox ダンシングブレーヴ (Dancing Brave) は、イギリス競走馬アメリカで生産され、イギリス、フランス、アメリカで計10戦8勝の成績を残した。おもな勝ち鞍は2000ギニーキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス凱旋門賞など。1980年代ヨーロッパ最強馬との声も高く、インターナショナルクラシフィケーション(現ワールド・サラブレッド・ランキング)では史上最高のレートが与えられた[1]1986年度ヨーロッパ年度代表馬、イギリス年度代表馬、フランス年度代表馬。

引退後は種牡馬としてイギリスと日本で繋養され、少ない産駒数からGI優勝馬を輩出するなど申し分のない実績を残した。

生い立ち

アメリカのグレンオーク牧場によって生産されたダンシングブレーヴ[2]は、イヤリングセールサウジアラビア王子であるハーリド・ビン・アブドゥッラーに20万ドルで落札されイギリスに渡る。一際目を引く活発な動きを見せるその仔馬は、父馬であるリファールの名にちなみ「躍動する勇者」 (Dancing Brave) と名付けられた[3]

競走馬時代

2歳時を2戦2勝で終えたダンシングブレーヴは、明け3歳になると、クレーヴンステークス(G3)で初重賞制覇を成し遂げ、次走2000ギニーに出走するとグリーンデザートに3馬身の差をつけ圧勝。

エプソムダービーでは血統などからスタミナ不足が懸念されたが、結局単勝1.5倍の圧倒的な1番人気に推されることとなった。レースでは道中前が壁になるアクシデントがあり最後の直線に入ってもまだ後方のまま、残り2ハロンの時点で先頭のシャーラスタニとの差は12馬身差以上の差があった。しかし、ここからダンシングブレーヴは驚異的ともいえる追い込み(ラスト2ハロン目が10秒3)を見せ、先頭を走るシャーラスタニを猛追する[4]。だがその末脚をもってしても僅かに届かず、1/2馬身差にまで追いつめたものの2着に終わった。

エプソムダービーは負けたものの、その強さを知らしめたダンシングブレーヴは次走エクリプスステークスに出走した。ここで“鉄の女”の異名で呼ばれた世界的強豪、トリプティクに4馬身差をつけ完勝。その勢いを借りキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスへと駒を進めた。1番人気こそエプソムダービーに続きアイリッシュダービーも制したシャーラスタニに譲ったが、競走馬としての充実期に入りつつあったダンシングブレーヴの末脚に敵うものはおらず、2着に3/4馬身の差をつけて勝利した。

秋初戦、凱旋門賞の叩き台となったセレクトステークス(英G3)では2着の馬に10馬身差をつけレコードタイムで圧勝。本番の凱旋門賞では、ベーリング、シャーラスタニ、 シャーダリ、トリプティクアカテナンゴ、ダララ、他にも東京優駿(日本ダービー)優勝馬シリウスシンボリチリラスオークス優勝馬マリアフマタなど、出走15頭中11頭までがG1競走優勝馬[5]という、1965年(優勝馬シーバードはベーリングの祖父)と並んで史上最強と称される豪華メンバーがロンシャンに集結した。このレースでは最後の直線入り口の時点で最後方という位置にいたが、そこから全馬をまとめて差し切り、2着に入ったベーリングに1 1/2馬身差をつけコースレコード(当時)での勝利を収めた。

この後アメリカに遠征しブリーダーズカップ・ターフに出走するも、設計の関係から一部分ダートを横切るコースが合わなかったか4着に敗退。この後間もなく関係者が引退を表明した。この敗退の理由はダートを横切る際、他馬が跳ね上げた土の塊が目を直撃し負傷していたとも、アメリカの固い芝に馬が戸惑ったためともいわれている。

歴代最強馬の評価

並みいるメンバーが揃った凱旋門賞で劇的なレコード勝ちをしたダンシングブレーヴには高い評価が寄せられた。1977年から始められたインターナショナル・クラシフィケーションで、ダンシングブレーヴは141ポンドを与えられた。この値は、1978年に凱旋門賞を連覇したアレッジドや1981年にダービーを勝って誘拐されたシャーガーに与えられた140ポンドを上回って、史上最高値となった。これは要するに、少なくとも1977年以降の世界のサラブレッドの中で最強であるということを示していた[6]

26年後の2012年に、このレートの見直しが発表された。これによると、1986年の各馬のレーティングは一律で3ポンド引き下げられることになった。この結果、歴代首位にたったのは2012年に140ポンドを与えられたフランケルで、ダンシングブレーヴは138ポンドとなって歴代2位となった。引き下げ後の値によっても、1977年から2011年の間、ダンシングブレーヴが歴代1位であったことには変わりがない。このレートの見直しには賛否が両論ある[7][8][9]

競走成績

出走日 競馬場 競走名 距離 着順 騎手 着差 1着(2着)馬
1985.10.14 サンダウン ドーキングS 8f 1着 G.スターキー 3馬身 (Mighty Memory)
テンプレート:011.テンプレート:01 ニューマーケット ソーハムハウスS 芝8f 1着 G.スターキー 2 1/2馬身 (Northern Amethyst)
1986.テンプレート:04.17 ニューマーケット クレイヴァンS G3 芝8f 1着 G.スターキー 1馬身 (Faraway Dancer)
テンプレート:0テンプレート:05.テンプレート:06 ニューマーケット 2000ギニー G1 芝8f 1着 G.スターキー 3馬身 (Green Desert)
テンプレート:0テンプレート:06.テンプレート:04 エプソム ダービー G1 芝12f 2着 G.スターキー 1/2馬身 Shahrastani
テンプレート:0テンプレート:07.テンプレート:05 サンダウン エクリプスS G1 芝10f 1着 G.スターキー 4馬身 (Triptych)
テンプレート:0テンプレート:07.26 アスコット KGVI&QES G1 芝12f 1着 P.J.エデリー 3/4馬身 (Shardari)
テンプレート:0テンプレート:09.12 グッドウッド セレクトS G3 芝10f 1着 G.スターキー 10馬身 (Ozopulmin)
テンプレート:010.テンプレート:05 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m 1着 P.J.エデリー 1 1/2馬身 Bering
テンプレート:011.テンプレート:01 サンタアニタ ブリーダーズCターフ GI 芝12f 4着 P.J.エデリー 6 3/4馬身 Manila

種牡馬時代

引退後はダルハムホールスタッドで日本円換算で総額約33億円の大型シンジケートが組まれて種牡馬入りしたが、1987年秋、不治の病で奇病とも言われるマリー病に蝕まれてしまう。この年イギリスでマリー病に罹患したサラブレッドはわずかに5頭であったが、よりにもよってその内の1頭が本馬であった。その後も種牡馬活動を続けていたものの、1988年生まれの初年度産駒がほとんど走らなかったことと、体調管理の難しさなどから1991年、ダルハムホールスタッドは早くも見切りをつけて売却を模索し始めた。その金額は、シンジケート総額よりも遥かに格安のものであった。

「ダンシングブレーヴが購入可能」と打診を受けた日本中央競馬会 (JRA) は購入を検討し、マリー病ゆえにJRAでも馬産地でも賛否両論乱立する激しい議論になったものの、最終的に購買を決断し1991年に日本へ輸入、日本軽種馬協会へ寄贈される事となった[10]。ところが、その後、イギリスに残した産駒から、マリー病罹患後に種付けした世代にコマンダーインチーフホワイトマズルなど活躍馬が続出し[11]、欧州の関係者を「早すぎた日本への輸出」と嘆かせた。またイギリスではスポーツ紙のみならず一般紙でさえ「早計な判断から起きた国家的な損失」と報じたという。これら産駒はいずれも日本に輸入され、中央競馬地方競馬で活躍馬を出している。日本でもエリモシックキョウエイマーチキングヘイローテイエムオーシャンなどを輩出し成功した。

その後も体調が不安定で、治療薬の副作用にも苦しみ、その種牡馬生活はお世辞にも順調とは言い難いものであったが、空調を導入し馬房の温度管理を徹底したり、専属スタッフが傍らに常駐したりと、関係者の尽力もあって最晩年まで少ないながらも産駒を出し続けた[12]

1999年8月2日の早朝に体調が急変して死亡。その最期は、横になったらもはや立ち上がれないと悟っていたのか、病気の苦痛に耐えて最後まで4本の脚で踏ん張り立ち続け、そのまま息を引き取るという、見事な立往生であったという。

産駒の多くはマイルから中距離を中心に活躍し、父馬同様優れた瞬発力を武器にする。重馬場も苦にしない器用さも併せ持ち、欧州から輸入された種牡馬としては日本の軽い高速馬場への適性も比較的高い。しかしその反面体質が弱い産駒も少なくなく、体調管理の難しさからレースにムラがあるという意見も多い。

なお、その後も母の父(ブルードメアサイアー)としてスイープトウショウメイショウサムソンを出しているほか、コマンダーインチーフ、ホワイトマズル、キングヘイローといった後継種牡馬もGI級競走優勝馬を輩出した。

代表産駒

日本に輸出される前の生産馬

GI級競走優勝馬のみ記載。*(アスタリスク)の付いた馬は日本輸入馬。

ファイル:Whitemuzzle.jpg
ホワイトマズル

日本生産馬

母の父としての代表産駒

日本のGI級競走優勝馬のみ記載。

血統表

ダンシングブレーヴ (Dancing Brave)血統リファール系 / Mahmoud5×5=6.25%、Pharos(Fairway) 5×5=6.25% (父内) )

Lyphard 1969
鹿毛 アメリカ
Northern Dancer 1961
鹿毛 カナダ
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Goofed 1960
栗毛 アメリカ
Court Martial Fair Trial
Instanteneous
Barra Formor
La Favorite

Navajo Princess 1974
鹿毛 アメリカ
Drone 1966
芦毛 アメリカ
Sir Gaylord Turn-to
Somethingroyal
Cap and Bells Tom Fool
Ghazni
Olmec 1966
栗毛 アメリカ
Pago Pago Matrice
Pompilla
Chocolate Beau Beau Max
Otra F-No.3-d

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 山野浩一 『伝説の名馬 Part IV』 中央競馬ピーアール・センター、1997年

外部リンク

テンプレート:キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス勝ち馬

テンプレート:凱旋門賞勝ち馬
  1. 『競馬ブック』2013年3月2・3日号p88-89
  2. グレンオーク牧場は複数の人物からなるオーナーグループの名前であり、実際に牧場を持っているわけではなかった。所有繁殖牝馬は他の牧場に預託されており、ダンシングブレーヴの母ナヴァホプリンセスもテイラーメード牧場という牧場に預けられていた。そのためダンシングブレーヴも同牧場で生まれている(山野、1997年、19頁)。
  3. ノーザンダンサーの血を引くサラブレッドは血脈の始祖の名にちなみ舞踏バレエに由来を持つ名前をつけられる事が多い。例としてはニジンスキー(不世出の天才と称されたバレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーから)、ヌレイエフ(同じくバレエダンサーのルドルフ・ヌレエフから)、サドラーズウェルズ(バレエやオペラの劇場として有名なサドラーズウェルズ劇場から)などがいる。ダンシングブレーヴの父馬であるリファールもまたフランスの舞踏家、セルジュ・リファールに由来する。
  4. 研究内容や資料によって諸説あるが、一般的に1ハロン(約200m)の走行タイムは10秒フラット程度がサラブレッドの生理的限界であるとされている。付け加えて言えばダンシングブレーヴが繰り出したこのラップタイムは、短距離戦専門のスプリンターでも発揮する事は難しい。
  5. ただしシリウスシンボリJRAGI優勝馬。
  6. 『競馬ブック』2013年3月2・3日号p88-89
  7. ダンシングブレーヴの管理調教師であったガイ・ハーウッドは、27年前のハンデキャッパーが格付けした馬の評価を現在のハンデキャッパーが下げたことについて「ナンセンスの極み」と否定している。
  8. サラブレッド血統センターの秋山響は、この見直しを「以前のものよりもはるかに納得できるものになっている」と述べ、従前のレーティングには疑義があったと伝えている。『競馬ブック』2013年3月2・3日号p88-89
  9. イギリスの新聞のひとつ「ガーディアン」紙のグレッグ・ウッドは、この変更について「そんな馬鹿な話があるか?(will anyone believe it?)」と評した。「ガーディアン」紙のグレッグ・ウッドによる署名記事
  10. 一説には、JRAが購買していなければ、このマリー病を理由に殺処分されるところであったという話もある。
  11. 日本で種付け生産された以前の産駒にもダンシングサーパス(1990年 愛国産)が競走馬として輸入され、重賞勝ちこそなかったが宝塚記念3着、大阪杯2着等好走し、一足先に日本の馬場への適性の高さを示していた。
  12. キングヘイローなどの活躍で種付け依頼が急増したが、関係者の配慮により種付け頭数の制限を無くす事は無かった。最も多い年でさえ40頭強といった数しか種付けをしていない。