養蚕業
養蚕業(ようさんぎょう)はカイコ(蚕)を飼ってその繭から生糸(絹)を作る産業である。遺伝子組み換えカイコを用いた医薬素材の生産や、カイコ蛹を利用して冬虫夏草(茸)を培養するといった新しいカイコの活用も進んでいる。
養蚕業の歴史は古く、中国から他国に伝わったとされる。日本へは弥生時代に中国大陸から伝わったとされる[1]。
養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する。繭を絹にするために製糸工場で繭から生糸へと加工され、生糸をさらに加工して絹織物などの繊維になる。現在テンプレート:いつ日本では蚕を使ったタンパク質の生産の研究が主になっているが、培養細胞によるタンパク質の生産効率の高まりとともに、蚕を用いる優位性は下がってきている。
日本においては、世界恐慌以降の海外市場の喪失、代替品の普及などで衰退していった[2]。 昭和初期には221万戸もの農家(当時の国内農家の約4分の1)が従事する基幹産業であったが、現在テンプレート:いつの養蚕農家数は全国で500戸を下回っている。一方で、数万頭の蚕の生育度合を調整して同じタイミングで上蔟(じょうぞく:蚕が繭を作り出すこと)させるなど、日本の養蚕農家には特筆されるべき技術・知恵が残っている。[3]
日本における歴史
日本には紀元前200年くらいに、稲作と同時期にもたらされたと考えられている。195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。奈良時代には全国的(東北地方や北海道など、大和朝廷の支配領域外の地域を除く)に養蚕が行われるようになり、租庸調の税制の庸や調として、絹製品が税として集められた。
しかしながら国内生産で全ての需要を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの輸入は江戸時代に至るまで続いた。代金としての金銀銅の流出を懸念した江戸幕府は養蚕を推奨し、諸藩もが殖産事業として興隆を促進した。結果、幕末期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになった。日本が鎖国から開国に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な輸出品となった。
明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視され[2]、日本の近代化(富国強兵)の礎を築いた。日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである[4]。もうひとつの背景としては、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。1900年頃には中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1935年前後にピークを迎える。
だが1929年の世界大恐慌、1939年の第二次世界大戦、そして1941年の太平洋戦争によって、生糸の輸出は途絶した。一方で1940年には絹の代替品としてナイロンが発明された。戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅に至る。敗戦後の復興を経て、ようやく1970年代に再度のピークを迎えるも、1935年の半分以下に過ぎなかった。その後も、農業人口の減少や化学繊維の普及で衰退が進み、現在テンプレート:いつでは最盛期の1%ほどになっている。
市場シェア
現在テンプレート:いつ、日本の蚕の市場シェアは群馬県が1位であり、全体の4割ほどを占めている。
分布
日本国外での繭の生産は中国、インド、ブラジルなどで盛んに行われている。生産量は中国が最も多く、浙江省、江蘇省、山東省などが主要な養蚕地となっている。 日本の養蚕業の主産地として、南東北、北関東、甲信地方、南九州などがあげられる。繭の集散地として栄えた福島県梁川町、長野県上田市、京都府綾部市は蚕都と、東京都八王子市は桑都と呼ばれた。
出典
関連項目
- ジム・トンプソン
- イザーク・レーフ・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール
- 和服
- シルクロード
- あんぽ柿 - 廃業した養蚕家が選択した、後継生産品の1つ
- 富岡製糸場
- カイコ
- 絹
- 冬虫夏草
- 蚕箔 - 養蚕用具
- 工芸作物
外部リンク
テンプレート:Agri-stub- ↑ 埼玉県の養蚕・絹文化の継承について(埼玉県農林部生産振興課)
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite book
- ↑ にちはら総合研究所-冬虫夏草とは
- ↑ 東村山ふるさと歴史館編2002『繭と糸 : 養蚕と機織の道具と信仰 : 特別展 』東村山ふるさと歴史館