赤松貞範
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赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名。美作守護。赤松則村(円心)の次男。兄に範資、弟に則祐、氏範、氏康。子に顕則、頼則。官位は雅楽助、伊豆守、筑前守。号を春日部雅楽助という。
嘉暦元年(1326年)頃は摂津長洲荘の荘官を兄範資と共に勤め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った。建武2年(1335年)には中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を叫んで挙兵した時も従い、箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は300騎で脇屋義助7000騎に突撃を敢行した。これを見て義貞方の大友貞載が寝返ったため戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波春日部荘ほか播磨の所領を与えられたという。
南北朝時代の際は北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活躍し、室町幕府の確立に尽力した。正平元年/貞和2年(1346年)に姫路城の基礎である城を築いた。
正平6年/観応2年(1351年)に兄が亡くなった時、弟の則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は幕府から疎まれていたためとされる[1]。
正平11年/延文元年(1356年)に美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子の足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし、正平18年/貞治2年(1363年)に時氏が幕府に帰順すると美作を時氏の末子時義に交替させられた。翌年、春日部荘白耄寺に供養塔を建立している。
文中3年/応安7年(1374年)、69歳で死去。子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞・赤松貞村を輩出した。