賊軍
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テンプレート:出典の明記 賊軍(ぞくぐん)とは、「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍(反乱軍)のこと。朝敵とほぼ同じ意味だが、多く幕末・明治維新以後に用いられた。
明治政府成立後は、反政府軍の事を意味するようになった。
「賊軍、官軍」の歴史
- 平治元年(1159年)-永暦元年(1160年)、平治の乱で源頼朝・義経、源義朝とともに賊軍に。
- 文治元年(1185年)、平家滅亡に伴い、源氏、官軍に。
- 木曽義仲、賊軍認定を受ける。
- 承久3年(1221年)、鎌倉幕府追討の院宣によって鎌倉幕府が賊軍になるものの、承久の乱で幕府軍が官軍を破ったことから、当該院宣が取り消される事態に発展、逆に官軍になる。
- 足利尊氏、賊軍認定を受けるも、建武政権を滅ぼし、官軍となる。
- 幕末...長州藩と会津藩が官軍と賊軍の地位を争う。
- 明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い...旧幕府軍が「朝廷の意向を無視し、王政復古を行った薩摩藩の陰謀に誅戮(ちゅうりく)を加える」という討薩の表をもって大坂城から京へ進軍中に「錦の御旗事件」が発生。[1] 官軍と賊軍の地位が逆転する。[2]
幕末の「賊軍」
幕末においては当初、朝廷が幕府の政策を支持したため、禁門の変などで対外強硬策を主張した長州藩及びその支持者が賊軍とされた。しかし孝明天皇の崩御後、朝廷は方針を変更し、薩摩藩・長州藩などが官軍となり、薩長軍と戦った旧幕府軍は「賊軍」となった。
歴史書では長年にわたって薩長に逆らった江戸幕府軍は賊軍扱いされ、幕府軍の主力を占めた会津藩・奥羽越列藩同盟は賊軍とされた。
明治の「賊軍」
実質的に明治時代「賊軍」となったのは西南戦争などでの反乱士族とその同調者のみである。また明治初期に多く起こった一揆も「賊軍」とは言われない。
長らく汚名を被っていた旧幕府軍に対し、西南戦争関係者の名誉回復は比較的早く、1889年(明治22年)に西郷隆盛が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復している。
諺
- 勝てば官軍 負ければ賊軍
道理はどうあれ勝った側が正義であるという意味。実際、承久の乱での鎌倉幕府や建武政権を滅ぼした足利尊氏は、当初は朝廷によって賊軍とされながらも、官軍を撃破することで自らの正義を貫き、実力で官軍となった。
脚注
- ↑ 明治天皇から錦の御旗を授けられた仁和寺宮嘉彰親王が薩摩藩兵に先導され、薩長軍本営である東寺に入った。『戦乱の日本史』8頁
- ↑ 官軍となった薩摩軍は「死ぬのも名誉」と奮い立つ一方で、賊軍になった旧幕府軍の士気は萎えた。『戦乱の日本史』7、24頁
参考文献
- 『歴史読本 2005年8月号/第50巻8号(通巻789)』、新人物往来社
- 井上勝生『幕末・維新/シリーズ日本近現代史①岩波新書新赤本1042』、岩波書店、ISBN 4-00-431042-3
- 週刊「新説戦乱の日本史・第44回配本/鳥羽・伏見の戦い」、小学館、2008年