費イ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Ambox-mini テンプレート:三国志の人物

費 禕(ひ い、? - 253年)は、中国後漢末期から三国時代の人で、蜀漢政治家武将文偉。費伯仁・費観の同族。費承・費恭の父。娘は皇太子劉璿の妃。『三国志』蜀書に伝が立っている。荊州江夏郡鄳(現在の湖北省武漢市江夏区)の人。

蔣琬董允などとともに蜀の政治を支えた人物。諸葛亮・蔣琬・董允と共に蜀の四相と称される。

略歴

父母を早くに亡くし、一族で一世代上に当たる費伯仁に身を寄せた。伯仁の姑は当時益州の牧(地方長官)であった劉璋の母であり、この縁から費伯仁は当時の混乱の中で比較的安定していた益州に呼ばれ、費禕も義父の計らいで益州へ遊学した。

214年劉備が益州を支配すると、益州に留まりその家臣となる。董允・許叔龍と共にその盛名を謳われた[1]。政治手腕に優れ、友人の董允と共に劉備の嫡子劉禅の補佐を任され、舎人・庶子となり、劉禅が即位すると黄門侍郎に任命された[2]丞相諸葛亮にも厚く信頼され[3]、諸葛亮の命を受けてに交渉に向かった時には、呉主孫権の傍らにあった諸葛恪・羊茞から舌鋒鋭く論争を挑まれるが、辞儀を乱さずに理に従って答えてついに屈せず、孫権から「君は幾許もせずに必ず蜀の中心人物になる」とその人物と才能を高く評価された[4]

帰国すると侍中に昇進し、その後北伐に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。230年に中護軍となり[5]、後にまた司馬となった。その頃、幕営では常に魏延楊儀がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀は涙を流すという事態があった。費禕はそのような事があると常に二人の席の間に入り、物の分別を二人に諭した。力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕の取り成しがあっての事であった、と陳寿は綴っている。一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚する事になった際、両方の事件に費禕は関与した[6]

その後は蔣琬と共に蜀漢を支える存在になり、後軍師を経て尚書令[7]となった。北伐の再開を計画する蔣琬に反対したようである[8]。蔣琬の病が重くなった243年には大将軍録尚書事に昇進した。244年が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、王平と協力して魏軍を破っている。蔣琬が固辞した益州刺史も兼任するようになり、蔣琬の没後、248年より費禕が漢中に駐屯し、軍事・国政全てを担った。姜維はこれより前の243年に蔣琬によって涼州刺史に任命され、247年には衛将軍・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在であった。彼は大軍を動かして北伐を再開する事を希望していたが、「丞相(諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず[9]、まず内政の安定を計る事を第一としていた。

251年成都に一度帰還したが、成都に凶兆があるという言葉を受け、漢寿に駐屯していた。252年には幕府の開設が許された。

253年、宴席で強かに酔ったところを、魏の降将である郭循[10]に刺殺された。敬侯と諡された。費禕の死後、姜維と陳祗が国政を主導する事となるが、彼の後を継げる人物はおらず、また黄皓の台頭と連年の北伐により、蜀漢は衰退の一途を辿る事となった。

広元市元ハ区に墓所が残る。地級文物保護単位。

人物

費禕伝に引かれている『費禕別伝』によると、尚書令時代の費禕は日々の膨大な政事を過ちなくこなしつつも、宴席や博打事などにも遊び呆けていた。しかし、同職を引き継いだ董允がこれを真似ようとすると、数日で仕事が大きく遅滞した。董允は「人の能力の差とはこれ程あるものか。私の力は(費禕に)全く及ばない。一日中仕事をしていても、全く余裕がないではないか」と嘆いた。一方、私生活での費禕は慎み深く質素で、家に蓄財をする事はなかった。

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前になって光禄大夫来敏が費禕を訪ねてきて「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。費禕は勝負を受け二人は囲碁を指し始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を撃破して退けたという。

伝承

武漢の代表的な名所である黄鶴樓(呉の黄武二年に建てられたという)には、費禕が黄色い鶴に乘って飛來し、ここで休んだという傳説が存在する。[11]

脚注

テンプレート:Reflist
  1. 許靖の子の葬儀での逸話については董允を参照。
  2. 華陽国志』「劉後主志」によれば224年
  3. 後の南征からの帰還後、低い序列であったにも関わらず特別に車に同乗を許したという逸話がある。
  4. 『費禕別伝』に詳しい。
  5. 231年に諸葛亮が李厳を罷免する際の上奏では、行中護軍・偏将軍として名を連ねている。
  6. 魏延伝、楊儀伝参照。
  7. 尚書令としての仕事ぶりについては、『費禕別伝』に詳細がある。
  8. 蔣琬伝参照。なお後主伝の241年の記録には、漢中で蔣琬と費禕が数ヶ月協議していたとある。
  9. 姜維伝の引く『漢晋春秋』に掲載。
  10. 魏側の記録によると「郭脩」とある。当初は劉禅を狙っていたが、果たせなかったため、費禕が標的になった。
  11. 黄鶴樓在縣西二百八十歩。昔費文禕登仙,毎乘黄鶴於此樓憇駕,故號爲黄鶴樓。(『太平寰宇記』鄂州・江夏縣)