蒋エン

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蒋 琬(しょう えん、? - 246年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢政治家公琰蒋斌蒋顕の父。

荊州零陵湘郷県の人。入蜀前の荊州領有時代の劉備に仕官した。劉備亡き後は遺児劉禅丞相諸葛亮を支え、諸葛亮の死に際して後事を託された。卓越した政治手腕を持ち、諸葛亮に「社稷之器(国家を担う器である)」と評され、諸葛亮・費禕董允とともに「四相」あるいは「四英」と称された。関羽敗死後に孫権に帰順した潘濬の妻の兄である。

略歴

20歳にして、外弟の劉敏とともにその名を知られるようになり、荊州領有時の劉備に仕官した。劉備の入蜀に随行し広都県長に任命された。劉備が広都県を訪れた際、仕事を放置して泥酔していたため、激怒した劉備に処罰されそうになったが、諸葛亮の取り成しにより県長を罷免されただけで済んだ。まもなく什邡県令に復帰し、建安24年(219年)、劉備が漢中王に即位すると尚書郎に任じられた。

建興元年(223年)、諸葛亮が丞相府を開府すると東曹掾、後に昇進して参軍に任じられた。同5年(227年)、諸葛亮が北伐を開始した際には、長史の張裔と共に留守として成都に残り、政治・軍事を預かった。同8年(230年)に張裔に代わって長史となり、また撫軍将軍にも任じられた。諸葛亮は密かに劉禅に対し「私が死ぬことがあれば、後事を蒋琬に託すべきです」と上書していた。

建興12年(234年)、諸葛亮が死去すると尚書令となり、すぐに行都護・仮節・領益州刺史を加えられ、しばらくして大将軍録尚書事に昇進し、また安陽亭侯に封じられた。延熙元年(238年)、詔により漢中にて大将軍府を開府し、明けて同2年(239年)、大司馬に昇進した。『三国志』費禕伝によると、国の恩賞・刑罰は全て漢中にいる蒋琬に諮問され、その後で実施されたという。

この頃、蒋琬は以前の諸葛亮による北進策の度々の失敗を受け、漢水を利用して東進し魏興や上庸を攻撃する計画を立てた。しかし、持病により実行できずにいたことと、撤退の困難さを挙げて計画の反対を唱える人が大勢いたことから、劉禅の指示により、計画は実行されず中止された。

延熙6年(243年)、蒋琬は姜維涼州刺史とした上で北方に当たらせ、自身は涪(ふう、現在の綿陽)に駐屯する旨を上疏し認められた。同9年(246年)に病気が重くなり死去、恭侯とされた。東晋の常據の『華陽国志』によると、蒋琬の墓所は涪にあるとされる。

東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)においては、蜀の4名臣として諸葛亮・龐統黄権と並んで取り上げられており、諸葛亮の後継者として高く評価されている。また小説『三国志演義』でも、蒋琬は有能な政治家として描かれ、正史同様、高官を歴任し最終的に丞相にまで昇っている。

人物

諸葛亮が亡くなった時、人々は不安を抱いたが、後事を託された蒋琬の様子が変わらないのを見て心服したという。楊戯が蒋琬との議論の途中で返事をしないことがあった時には、「私の意見を肯定すれば彼の意見と合わず、否定すれば公に私を批判することになるから返事をしないのだ」と弁護した。蒋琬を「前任者(諸葛亮)に及ばない」と謗った楊敏に対しても、「事実私は前任者に及ばない」と言って恨みを持つようなことがなかった。後に楊敏は逮捕されることがあったが、それでも蒋琬は個人的感情でもって刑に処すことはなかった。蒋琬が個人的感情に流されず、冷静で道理に基づいた態度を取ることは、全てこのようであった。