楊儀
楊 儀(よう ぎ、? - 235年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は威公。荊州襄陽郡の人。兄に楊慮。諸葛亮の北伐時、その幕僚として重要な任務を担当した。諸葛亮の死後、魏延とその後継を争い彼を殺したが、後に失脚し自殺した。
略伝
かつては、荊州刺史で曹操に仕えた傅羣の主簿であった。しかし関羽の下に降り、功曹に取り立てられた。後に劉備へ使者へ赴き、気に入られて左将軍府の兵曹掾となった。219年、劉備が漢中王になると尚書になったが、221年に劉備が皇帝として即位すると、上司の尚書令劉巴と喧嘩して弘農太守に左遷された(太守ではあるが、弘農郡は魏の領地である)。だが諸葛亮と仲が良かったため、劉備が没した後、再び取り立てられて丞相参軍(幕僚)・丞相長史(幕僚長)と累進し、諸葛亮の補佐に当たった。
諸葛亮の出征時、事務処理に優れていた楊儀は、丞相府の幕僚の筆頭として、部隊編成の計画立案・軍需物資の確保などの重要な任務を滞りなく処理し、その才幹を高く評価された。ただ、狭量で自分の才覚を鼻にかけるようなところがあり、魏延と普段から仲が悪かった。軍議の場で両者が言い合いになった際、魏延が白刃で楊儀を脅し、楊儀がこれを恐れて泣くような時もあったという。諸葛亮は楊儀の才能と魏延の剛勇いずれも評価しており、どちらかを罷免するに忍びず、2人が不仲なのに心を痛めていた。
234年、諸葛亮が五丈原で魏との対峙中に病死すると、楊儀は諸葛亮の遺言に従って諸将を統御し、全軍撤退を成功させた。この時、魏延は撤退命令に従わなかった上、兵を挙げて楊儀を討とうとしたが、他の諸将ら全てが楊儀に味方し、魏延配下の兵士までもが彼を見捨てたため、軍が四散してしまう結果になった。魏延は息子達と漢中に逃げたが、その途中、楊儀の命を受けた馬岱の軍勢によって殺害された。『三国志』蜀書魏延伝によると、楊儀は届けられた魏延の首を踏みつけ、「愚か者め、もう悪事はできまい」と言ったという。
楊儀は諸葛亮の死後、長年の実績と政敵の魏延を討ち取ったことから、自分こそがその後継者に相応しいと考えていた。ところが諸葛亮の後継者には、留府長史として後方勤務を務めてきた蒋琬が選ばれ、尚書令・益州刺史という要職に任命されたのに対し、楊儀は統括する部署のない中軍師に任命されたのみで、職務もないという状態であった。これは諸葛亮がその生前、楊儀の能力については評価していたものの、その狭量すぎる性格を問題視し、自らの後継者には彼ではなく蒋琬を密かに指名していたからであった。[1]
楊儀はそれまで蒋琬のことを、経歴・実績のいずれも自分の後塵を拝してきたと考えていたため、この処遇に大きな不満を覚え、費禕に「かつて丞相(諸葛亮)が亡くなった際に、軍をあげて魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかったろうに」と漏らした。費禕はその内容を劉禅に密告したため、楊儀は庶人に落とされ漢嘉郡に流罪となった。ところが楊儀は、流刑地から他人を誹謗する激越な内容の上書を送り続けたため、朝廷はついに楊儀を拘束した。捕らえられると楊儀は自殺したが、その妻子は成都に戻ることを許された。
『三国志演義』における楊儀
小説『三国志演義』では、諸葛亮が五丈原で病没し魏延が反乱を起こす場面で、臨終の諸葛亮から、魏延が反乱を起こした時の対策として錦の嚢を託されている。果たして魏延が反乱し漢中に攻め込んでくると、楊儀は錦の嚢を開き、そこに書かれた指示に従い、魏延に向かって「『わしを殺せるものがおるか』と三度叫ぶことができたら漢中を譲ってやる」と告げる。魏延が「わしを殺せるものがおるか」と叫ぶと、その言葉が終わらないうちに、諸葛亮の密命を受け、偽って魏延配下となっていた馬岱によって、魏延は背後から斬殺されてしまう。しかしその後、諸葛亮の後継者に選ばれず、費禕に漏らした不満を劉禅に報告されている。激怒した劉禅は楊儀を処刑しようとするが、蒋琬の取りなしにより死罪を免れ、平民に落とされた上で流罪となるも、楊儀はこれを恥じて自殺したということになっている。
脚注
- ↑ さらに言えば、そもそも蜀に下った理由も競争相手の多い魏より全体的に人材難である蜀なら重用されるであろうという打算もあった。-内田重久「それからの三国志」より
伝記資料
『三国志』巻40 蜀書 劉彭廖李劉魏楊伝