華岡青洲

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華岡 青洲(はなおか せいしゅう、宝暦10年10月23日1760年11月30日) - 天保6年10月2日1835年11月21日))は、江戸時代外科。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。

は震(ふるう)。は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父・華岡尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目である。

生涯

宝暦10年10月23日1760年11月30日)、華岡直道の長男として紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現・和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。天明2年(1782年)より京都に出て、吉益南涯古医方を3ヶ月学ぶ。続いて大和見水カスパル流外科オランダ商館のドイツ人医師カスパル・シャムベルゲル慶安3年(1650年)- 慶安4年(1651年)に日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学オランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も長く京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。その中でも特に影響を受けたのが永富独嘯庵の『漫遊雑記』であった。そこには乳癌の治療法の記述があり、後の伏線となる。

天明5年(1785年)2月、帰郷して父・直道の後を継いで開業した。父は息子の帰郷に安心したのか、同年6月2日7月7日)に64歳で死去した。

手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始める。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を目前にして行き詰まる。

実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」(別名、麻沸散-まふつさん)を完成させる。

享和2年(1802年)9月、紀州藩主・徳川治宝に謁見して士分に列し帯刀を許された。

文化元年10月13日1804年11月14日)、大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌摘出手術に成功した[1][2](しかし4ヵ月後に患者は死亡)。文化10年(1813年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用される。ただし青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。文政2年(1819年)、「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった。

天保6年10月2日1835年11月21日)、家人や多くの弟子に見守られながら死去。享年76。法名は天聴院聖哲直幸居士。青洲の跡は次男の鷺洲(修平)が継いだ。

大正8年(1919年)、生前の功により正五位を追贈された。昭和27年(1952年)、外科を通じて世界人類に貢献した医師のひとりとして、アメリカ合衆国シカゴにある国際外科学会付属の栄誉館に祀られた。

青洲の医術

前述の通り、文化元年10月13日(1804年11月14日)、全身麻酔手術に成功している。これは、1846年アメリカで行われた、ウィリアム・T・G・モートンによるジエチルエーテルを用いた麻酔の手術よりも40年以上前のことであった。それ以前にも、中国三国時代の医師・華佗や、インカ帝国コカを使った麻酔手術が行われたという伝承がある。康熙28年(元禄2年)11月20日1689年12月31日)に、王世孫であった後の尚益王の兎唇形成手術を成功させたという琉球国高嶺徳明も、一説によれば全身麻酔を用いたという。しかしいずれも詳細は不明であり、実例として証明されている全身麻酔手術は青洲の物が最古となる。ただ、青洲が華佗の医術を意識していたのは事実であり、通仙散の別名・麻沸散とは、華佗が使ったとされる麻酔薬の名である。

また、青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳癌だけでなく、膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術などさまざまな手術を行っている。

前述の通仙散の他、彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯中黄膏紫雲膏などがある。

青洲は常に「内外合一 活物窮理」を唱えた。内科と外科を区別せず(当時の内科とは漢方医学、外科とはオランダ医学の事である)、また机上の空論ではなく実験や実証を重んじるという意味である。

前述の全身麻酔手術の成功を機に、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、手術を希望する患者や入門を希望する者が殺到した。青洲は全国から集まってきた彼ら門下生たちの育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、生涯に1000人を超える門下生を育てた。青洲の弟子からは、本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜、難波立愿、三村玄澄といった優れた外科医が輩出している。その中でも特に優れていたのが本間玄調であり、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い、また医術についての著作を残した。しかし、玄調はその著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したとして、破門されている。とはいえ、青洲は自分の医術の詳細を書物に書き残さなかったため、玄調の著作は今日、青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料となっている。青洲には、自分の医術を限られた弟子にしか公開しないという、秘密主義的な面が存在した。門下生たちには、通仙散の製造方法を家族や友人にすら教えてはならないと、血判まで提出させていた(ただし、通仙散の処方は極めて難しく、使用には大変な危険を伴うため、みだりに公開できなかったという事情もある)。

その本間玄調の記録によると、通仙散の配合は、曼陀羅華八分、草烏頭二分、白芷(びゃくし、“し”は草冠に止)二分、当帰二分、川芎(せんきゅう)二分であった。これらを細かく砕き、煎じて滓を除いたものを暖かいうちに飲むと、2~4時間で効果が現れた。しかし、やや毒性は高かったらしく、扱いは難しかったという。また曼陀羅華のどの部分を利用したのか、それぞれの正確な調合分量は記録されておらず、通仙散の現物も残されていない。

和歌山県出身の小説家である有吉佐和子によって、小説『華岡青洲の妻』が昭和41年(1966年)に新潮社から出版されベストセラーとなる。この小説により医学関係者の中で知られるだけであった青洲の名前が一般に認知される事となる。

弟子

  • 本間玄調
  • 鎌田玄台
  • 熱田玄庵
  • 館玄竜
  • 難波立愿
  • 三村玄澄
  • 原順吾[3]

華岡家

南朝方の和田正之楠木氏の一族)が後醍醐天皇の崩御後に河内国石川郡中野村華岡(現・大阪府富田林市)に住居を構え、華岡に改姓したことが華岡家の始まりとされる。数代後の華岡伝之丞畠山高政に仕えていたが、畠山氏が凋落したために紀伊国麻生津荘赤沼田に移った。伝左衛門慶長年間に名手荘に住居を構え、麻生津荘の家と併用していた。伝右衛門尚親が名手荘西野山村に移り住み、寛永年間に村内の丘陵を開拓して「平山」と名付けた。また、平山に家を移し農業に従事する傍ら、医学薬品を研究し村民たちを治療していた。久兵衛宗英までは医師と農業を兼業していたが、雲仙尚政から医師を専業とした。現在、末裔としては札幌市の麻酔科医・五十嵐由香里がいる。

華岡伝之丞━伝左衛門━尚親━宗英━尚政━直道━┳青洲(雲平)┳子弁
                       ┣於勝    ┣葛城(雲平)
                       ┣小陸    ┣鷺洲(修平)━厚堂(雲平)
                       ┣冶兵衛   ┗南洋(準平)━青洋(完平、誠斎)
                       ┣良応
                       ┗鹿城(良平)┳康平(幸平)
                              ┗積軒(良平)=修平

脚注

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参考文献

  • 『医聖 華岡青洲』(昭和39年(1964年10月15日発行、森慶三、市原硬、竹林弘、医聖華岡青洲先生顕彰会)
  • 『華岡青洲先生及其外科』伝記叢書135(平成6年(1994年2月26日発行、呉秀三、大空社)
  • 「洋学史から見た華岡青洲」宗田一、『洋学3』洋学史学会研究年報 (平成7年(1995年10月20日発行、洋学史学会、八坂書房
  • 『華岡流 医術の世界 華岡青洲とその門人たちの軌跡』(平成20年(2008年3月19日発行、島根大学附属図書館医学分館大森文庫出版編集委員会 編、ワンライン)

関連項目

外部リンク

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  • 「華岡青洲春林軒門人録」『華岡青洲』(昭和47年(1972年6月30日発行、那賀町華岡青洲をたたえる会編、那賀町立図書館発刊)