イギリス海峡
イギリス海峡(イギリスかいきょう、英語: English Channel)または英仏海峡、フランス語でラマンシュ海峡(La Manche)はイギリスとフランスを隔てている海峡。大西洋と北海に面し、北端にはドーバー海峡がある。南部にはチャネル諸島がある。1994年5月6日の英仏海峡トンネル開通以来、英国とフランスを鉄道で往来可能となった。
全長約562キロメートル(350マイル)、最も幅の広い地点で240キロメートル(150マイル)から最も狭いドーバー海峡の34キロメートル(21マイル)と全体的に非常に凹凸の多い地形になっている[1]。
ヨーロッパの大陸棚周辺にある海域で最も小さい海峡であり、7万5,000平方キロメートル(2万9,000平方マイル)のみをカバーしている[2]。
地理
イギリス海峡は東端をドーバー海峡、西端をコーンウォール半島のランズ・エンド岬 - アシャント岬(Ushant)間までとする広い範囲の海峡である。英仏海峡間ではドーバー海峡が最も狭くなっている[1]。最も広い区間はライム湾(Lyme Bay)とサン・マロ湾の間だが、この区間は比較的深度が浅く、最も深い区間で平均深度約120メートル、そこからドーバー海峡とカレーの間までに約45メートルまで隆起している。北海に隣接したブロード・フォーティーンス海域 (Broad Fourteens) では26メートルとなるが、ガーンジー島の北西30キロメートル地点にあるイギリス海峡の最深地点であるハーズ・ディープ (Hurd's Deep) では最深部で180メートル(19マイル)に達する。[3]
イギリス海峡内には多くの島が存在し、中でもハンプシャー州の対岸でイギリス海峡内にあるワイト島はソレント海峡でイギリス本土から分断された島でヴィクトリア朝時代から重用されておりワイト島1島でイングランドの1州を成している。一般的に、コーンウォール半島の沖合に位置するイギリス沿岸部から遠く離れた南西沖のシリー諸島はイギリス海峡の島嶼とは見なされない。
フランスの岸では海岸線が深く入り組んでおり、特にコタンタン半島はイギリス海峡に深く突き出た形をしている。
海峡の形成
海峡の形成は比較的新しい時代のもので、最終氷期末期の約1万年前までは、陸地であった。その後、45 - 18万年前に氷床の融解により北海南部に淡水湖が形成されたが、これがウィールド地方 - アルトリア丘陵方面で発生した壊滅的な大規模洪水によって大西洋と連結され、海峡が形成されたと考えられている。1秒辺りの最大放出量は100万立方メートルを超え、洪水は数ヶ月続いたと考えられる。洪水に至った原因については特定されていないが、淡水湖の水圧が地震によって圧縮強化されて引き起こされたと推定されている。ヨーロッパ大陸とイギリスを繋げていた地峡を破壊したと同時に、洪水は巨大な岩盤で形成された谷を英仏海峡の下側に刻み、流線型になった島と壊滅的な洪水の爪痕を残した[4]。
イギリスの海上気象予報 (Shipping Forecast) でのイギリス海峡は4つのエリアに区分されている(イギリス海峡西側)。
名称
16世紀から18世紀の前半にかけて、オランダの海図に「エンゲルス海峡」 (テンプレート:Lang-nl) と記載されて以来、「英仏海峡」の名前は広く使用されている。また、「ブリティッシュ海峡(イギリスの海峡)」 (テンプレート:Lang-en) として知られている[5]。それ以前にはブリティッシュ海(イギリスの海)として知られており、2世紀の地理学者であるクラウディオス・プトレマイオスの "Oceanus Britannicus" にもそう記載されている。同様の名称は1450年代のイタリアの地図 "canalites Anglie" の上でも使用されている。これは最初の「海峡」名の使用である記録と考えられる[6]。
フランスでの「ラマンシュ海峡」という名称は17世紀以来継続して使用されている[2]。名前の由来は英仏海峡のスリーブ(テンプレート:Lang-en, テンプレート:Lang-fr)からであると言われているが、スコットランドではケルト語で「海峡」を意味する「ミンチ海峡」が語源であると主張されている[7]。
スペイン及びスペイン語話者のほとんどはこの海峡を「ラ・マンチャ海峡」 "El Canal de la Mancha" と呼んでいる。ポルトガル語では「マンチャ海峡」 "O Canal da Mancha" である(フランス語からの翻訳ではなく、当初からこう呼ばれている。ポルトガル語及びスペイン語で "Mancha" は「染み」 (テンプレート:Lang-en) を意味しており、スリーブに対する単語は "テンプレート:Lang-es" である。)。ギリシア語 (テンプレート:Lang-el) やイタリア語 (テンプレート:Lang-it) など他の言語ではこの名前が使用されている。
ブルトン語では "テンプレート:Lang-br" として知られている(ブルターニュの海)。
南イギリス (southern Britain) では単に「海峡」と呼ばれている。
考古学
英仏海峡の地質学と考古学は海洋考古学者 (Maritime archaeology) が着目している。そして、そこには何千隻もの難破船が沈んでいる[8]。
2007年8月、ワイト島に拠点を置く水面下考古学センター (Underwater Archaeology Centre) が8千年前に海洋に沈んだ中石器時代の村であるボールドノア・クリフ・メソリシック村 (Bouldnor Cliff Mesolithic Village) から木材とセイヨウハシバミの実、火打ち石を使用した人工物を引き揚げた[9]。
石器時代の有機材料の発掘はイギリスでは珍しく、国際的にも重要視されている。
歴史
イギリス海峡はイギリスにとって自然の要塞とも言える主要な防衛線で、北海から大西洋へと続く海峡の封鎖のコントロールと軍の侵入を阻止する役目を持っている。ヨーロッパ側の海峡に面したオランダとベルギーの港が重要視されており、1588年のアルマダの海戦やナポレオン戦争の間のナポレオン・ボナパルトの侵入を防いだ。本土への侵入とロンドン上空の空中戦まで発展した第二次世界大戦中のナチス・ドイツからの侵略の危機が最も危険な時期だった。
第二次世界大戦
第二次世界大戦中、ヨーロッパの戦いは主に大西洋での戦いに制限された(大西洋の戦い (第二次世界大戦)を参照)。バトル・オブ・ブリテンの初期は海峡上の艦船・港湾施設への空襲が主で、海峡の横断はツェルベルス作戦を例に見られるようにノルマンディー上陸作戦までは非常に危険だった。 海峡の攻防戦は航空機、潜水艦、掃海艇などを駆使しながら徹底的な沿岸戦へと移行した。
イギリス海峡内の諸島はドイツによって占領されたイギリス領土(第二次エル・アラメイン会戦時にドイツアフリカ軍団に占領されたエジプト地域を除く)の唯一の地域となった。ノルマンディー上陸作戦の成功後にイギリス海軍は島を封鎖するなどしてドイツ軍を圧迫し、5年間の占領期間中の最後の数ヶ月はドイツ占領軍は飢餓と物資欠乏に悩まされた。ドイツ本国の降伏後、1945年5月9日にドイツの諸島占領軍はヨーロッパ本土で降伏した。
脚注
テンプレート:海- ↑ 1.0 1.1 "English Channel". The Columbia Encyclopedia, 2004.
- ↑ 2.0 2.1 "English Channel." Encyclopædia Britannica 2007.
- ↑ "English Channel." The Hutchinson Unabridged Encyclopedia including Atlas. 2005
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ A chart of the British Channel. / Jefferys, Thomas / 1787
- ↑ "Map Of Great Britain, Ca. 1450", Collect Britain
- ↑ (Room A. Placenames of the world: origins and meanings, p. 6).
- ↑ Shipwrecks
- ↑ テンプレート:Cite news