石川六郎
テンプレート:出典の明記 石川 六郎(いしかわ ろくろう、1925年(大正14年)11月5日 - 2005年(平成17年)12月14日)は、日本の実業家。鹿島名誉会長、日本商工会議所第15代会頭。妻・ヨシ子は鹿島の第4代社長・鹿島守之助の娘。父は石川一郎初代経団連会長。
学位は工学博士(東京大学)。称号は日本商工会議所・東京商工会議所名誉会頭。その他の役職として日本卓球協会第7代名誉会長、日本を守る国民会議顧問、日本会議顧問を務めた。
来歴・人物
東京府北豊島郡滝野川大字西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)に生まれた[1]。石川一郎、冨美子の六男。父は合併で大日本人造肥料となっていた大きな化学会社の常務だった[1]。
東京高師附属小学校(現・筑波大附属小)、東京高師附属中学校(現・筑波大附属中・高)卒業。附属中の同期生には、山本卓眞(富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)、芥川也寸志(芥川龍之介の三男)などがいる。旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学第二工学部に入学。
1948年(昭和23年)に東京帝国大学第二工学部を卒業した後、運輸省(現国土交通省)に入省。日本国有鉄道に勤務中、鹿島の第4代社長・鹿島守之助の目に留まった。これを契機に鹿島家との交流を深めた六郎は1953年(昭和828年)、守之助の二女で画家のヨシ子と結婚。また、守之助から鹿島への入社を打診された。六郎はこれを受諾し、1955年(昭和30年)に国鉄を退社。取締役として鹿島に入社した。
入社後の六郎は、原子力開発に尽力した。父・一郎が原子力委員会委員長代理として原子力政策に携わっていたことも影響しているとみられる。将来のエネルギー需要を満たすために原子力が必要とされると確信した六郎は、社内に原子力室を新設し、初代室長に就任した。役員会は巨大なリスクを懸念して反対したが、六郎は積極的に原子力分野への進出を推進した。1957年(昭和32年)に日本原子力研究所第1号原子炉を受注したのをはじめ、東京電力福島原子力発電所など多くの原子力発電所を受注した。
また、日本における超高層ビルのさきがけ・霞が関ビルの建設を主導した。
1978年(昭和53年)、鹿島の第7代社長に就任。「精神作興(せいしんさっこう:精神を奮い起こすこと)」を掲げ、TQC(Total Quality Control:総合的品質管理)をいち早く導入するなど、社内改革を推進した。また、九頭竜ダムや名神高速道路などの大型案件を受注した。
オイルショック後の景気低迷や、静岡県で発覚した談合事件への批判などにより、「建設業冬の時代」と称された1982年(昭和57年)、日本土木工業協会会長に就任。建設業界の信頼と業績の回復に努めた。
1984年(昭和59年)、社長職を縁戚関係にある鹿島昭一に譲り会長に就任。1986年(昭和61年)藍綬褒章を受章した。1987年(昭和62年)5月、日本商工会議所第15代会頭に就任。第14代会頭・五島昇が病気退任するに当たり、五島の強い推薦を受けての就任であった。日商会頭としては、消費税導入にあたり、「条件付き導入」を主張するとともに、各地の商工会議所が消費税導入に反対していたのを説得した。
1993年(平成5年)ゼネコン汚職で当時の鹿島副社長が逮捕されたことを受けて、事件との関連は否定しつつも全ての役職から辞任した。その後も、日商・東商の名誉会頭として後進の育成に当たったほか、日伊協会会長、日独協会理事、日本・ベルギー協会理事、日墺文化協会理事、森記念財団評議員、五島記念文化財団理事、慶應工学会理事、日本英語交流連盟(ESUJ)顧問、ジェスク音楽文化振興会理事、地球環境行動会議(GEA)相談役、日本外交協会理事、社会経済生産性本部理事などを務めた。
2005年(平成17年)12月14日午後9時41分、心不全のため東京都内の病院で死去、80歳。2006年(平成18年)1月24日、鹿島・日商・東商の合同葬が築地本願寺で営まれた。
年譜
- 1925年 生誕
- 1938年 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
- 1943年 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
- 1945年 旧制成蹊高等学校卒業
- 1945年 東京帝国大学第二工学部(現東京大学工学部)土木工学科に入学
- 1948年 東京帝国大学卒業。運輸省鉄道総局に入省
- 1949年 日本国有鉄道に入社
- 1953年 鹿島ヨシ子と結婚
- 1955年 鹿島建設に入社。同社取締役(経営企画担当)に就任
- 1956年 鹿島常務に就任
- 1957年 鹿島専務に就任
- 1959年 鹿島副社長に就任
- 1960年 日本青年会議所会頭に就任
- 1974年 経済同友会副代表幹事に就任
- 1978年 鹿島社長に就任
- 1982年 日本土木工業協会会長に就任
- 1984年 鹿島会長に就任。経済団体連合会(経団連:現日本経済団体連合会)常任理事に就任
- 1985年 日本建設業団体連合会第5代会長に就任(~1987年12月)
- 1986年 藍綬褒章を受章
- 1987年 日本商工会議所会頭・東京商工会議所会頭に就任(~1993年7月)。土木学会会長に就任
- 1987年 新日本フィルハーモニー交響楽団理事長に就任
- 1988年 国際商業会議所日本委員会第13代会長に就任(~1993年)
- 1991年 日本工学会会長に就任(~1999年)。日本卓球協会第14代会長に就任(~1997年)
- 1992年 ペルー政府から太陽勲章大十字位を受章
- 1994年 名誉会長に就任
- 1995年 日伊協会会長・東京銀杏会会長に就任
- 1995年 日本卓球協会第7代名誉会長に就任
- 2000年 日本エジプト友好協会理事長に就任。イタリア政府からイタリア共和国功労勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェを受章
- 2005年 死去
系譜
- 祖父・石川卯一郎
- 石川六郎によれば、「父方の祖父・石川卯一郎は大阪の出身であり、石川家は江戸時代、「宇田屋」という屋号の商家であった[1]。祖父は青雲の志に燃え単身明治の東京に出た[1]。関東酸曹というカセイソーダ製造の化学会社を経営した[1]。」という。
- 作家、評論家の神一行によれば、「石川家はもともと大阪の農家の出であるが六郎の祖父・卯一郎が立志伝中の人物[2]。丁稚奉公から身を興し苦闘のすえ、昭和電工と日産化学の前身である関東酸曹という会社を創立した[2]。」という。
- 父・石川一郎
- 兄弟
┏石川馨 ┃ ┣石川潔 ┃ ┣石川誠 ┏石川一郎━━┫ ┃ ┣石川六郎 ┣石川次郎 ┃ 石川卯一郎━━┫ ┣石川七郎 ┣石川三郎 ┃ ┃ ┗石川八朗 ┗石川四郎 (四朗)
- 鹿島家(永富家系図)
中曽根康弘 ┃ ┣━━━┳美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━蔦子 ┃ ┗美恵子 ┃ 渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 (永富) ┃ 永富敏夫━━━鹿島守之助 ┃石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣よし子 鹿島精一 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━卯女 ┣三枝子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━いと ┗鹿島昭一 ┃ 梁瀬次郎━━━━┳公子 ┃ ┗弘子 ┃ 稲山嘉寛━━━━稲山孝英
参考文献
関連書籍
- 石川六郎『海外建設プロジェクトと建設輸出(新体系土木工学 別巻)』 技報堂出版、1982年、ISBN 4765512010
- 『私の履歴書(第37巻)』 日本経済新聞社、ISBN 4532169011(全38巻)、ISBN 453216902X(第25~38巻)※分売不可
- 石川六郎『婦人問題講演集(第1巻)』 日本図書センター、2003年、ISBN 4820599852
- 菊池久『血統商法―鹿島建設会長石川六郎の眼力とあくなき挑戦』 ぴいぷる社、1988年、ISBN 4893740121
脚注
関連項目
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
五島昇
|style="width:40%; text-align:center"|日本商工会議所会頭
第15代: 1987年 - 1993年
|style="width:30%"|次代:
稲葉興作
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