石崎汽船
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石崎汽船株式会社(いしざききせん)は、愛媛県松山市に本社を置く海運会社である。
創業130年を超える老舗の旅客船事業者である。長年にわたり近鉄グループに属していたが、現在は伊予鉄道の持分法適用関連会社である。
沿革
創業期
- 1862年(文久2年) : 新浜村(現 松山市高浜)の庄兵衛が廻船業を興す[1]。
- 1864年(元治元年) : 庄兵衛が死去するが、以後の後継ぎも「庄兵衛」を名乗る。
- 1869年(明治2年) : 庄兵衛(創始者の孫にあたる)が「石﨑庄兵衛」を名乗り始める。
- 1873年(明治6年) : 外輪船を輸入し、愛媛県内で旅客船営業を始める。
- 1891年(明治24年) : 徳山の船会社から「第一相生丸」を購入する。以後、購入・建造する船は「第○相生丸」と命名されるようになる。
- 1903年(明治36年)8月 : 三津浜 - 尾道航路を開設する。
- 1919年(大正8年) : 株式会社に改組し、石崎汽船株式会社とする。
水中翼船・フェリー時代
戦後、高度成長期にフェリーや水中翼船を相次いで導入。モータリゼーションの進展や高速化にうまく対応し業績を伸ばしていった。
- 1965年(昭和40年) : 松山 - 広島航路にフェリーを導入する。
- 1966年(昭和41年) : 松山 - 広島航路に水中翼船を導入する。
- 1969年(昭和44年) : 松山 - 尾道航路に水中翼船を導入する。
- 近畿日本鉄道と伊予鉄道が共同で資本参加する。
- 1971年(昭和46年) : 松山 - 尾道航路に高速船を導入する(四国内と本州の鉄道との連絡航路として利用された)。
- 1975年(昭和50年)5月 : 松山 - 三原航路を開設する(瀬戸内海汽船、昭和海運との共同運航)。新幹線との連絡航路として利用された。
- 1979年(昭和54年) : 松山 - 尾道航路に就航していた高速船を水中翼船に置き換える。
- 1988年(昭和63年)6月 : 松山 - 三原航路が、瀬戸大橋開通による航路再編に伴い廃止される。
高速船中心の時代へ
- 1993年(平成 5年) : 松山 - 広島航路に就航していた水中翼船を、高速船「スーパージェット」に置き換える。
- 1998年(平成10年)3月 : 松山 - 門司(北九州市)航路に「スーパージェット」の大型タイプである「シーマックス」を導入し就航させる。
- 1999年(平成11年) : 松山 - 尾道航路が、しまなみ海道開通による航路再編に伴い廃止されたほか、松山 - 広島航路を縮小する。
近況
「スーパージェット」(松山 - 広島)の運航時間帯拡大による増便がなされている。
- 2004年(平成16年) 2月 : 「シーマックス」(松山 - 門司)の下関港寄港を開始する(2006年5月以降は休止)。
- 2004年(平成16年)10月1日 : 中島町営汽船の経営を引き継ぎ、傘下に中島汽船を発足させる。
- 2008年(平成20年)1月15日 : 「シーマックス」(松山 - 門司)を廃止する。
- 2008年(平成20年)3月10日 : 松山 - 呉 - 広島の「スーパージェット」が、テンプレート:要出典範囲1日15往復から14往復に減便する(フェリー便は現状維持)。
- 2009年(平成21年)10月31日 : 瀬戸内海汽船とともにICい〜カードとPASPYを導入し供用を開始する。また、ICOCAの共通利用も開始する。
- 2013年(平成25年) 4月1日 : 100%子会社の松山・小倉フェリーを設立し、フェリーさんふらわあから松山 - 小倉航路を承継する[2]。
- 2013年(平成25年)7月 : 本社所在地が、松山市三津1丁目4番9号から松山観光港に移転する。
- 2014年(平成26年)4月1日 : 消費税増税に伴いスーパージェット・クルーズフェリーの料金値上げをする。
航路と利用客数
廃止航路
- 松山 - 尾道 : 5万人(1995年)
- 松山 - 三原 : 13万人(1985年)
- 松山観光港 - 門司港(高速船「シーマックス」) : 7万人
脚注
外部リンク
テンプレート:Coord- ↑ 『石崎汽船史 海に生きる』では、このときを創業とみなし、庄兵衛を石崎汽船の創始者としている。
- ↑ テンプレート:PDF(プレスリリース) - 四国運輸局プレスリリース(2013年3月22日付、同年4月5日閲覧)