現代 (時代区分)
テンプレート:出典の明記 時代区分の現代(げんだい)とは、世界の歴史における時代区分である。
概説
“古代→中世→近世→近代→現代”という時代区分の最後に来る。言い換えれば「現在の時代」「私たちの時代」である。
多くの場合、対象とする分野におけるおおまかな状態が現在と同じ形に変化した時点以降の時代を指す。(日本の国政における現代であれば1947年5月3日の日本国憲法施行、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効による主権回復などが変化時点に挙げられる)
「現在の時代」であるが故に、将来的に「現代」という枠組みが変化する可能性は否定できない。前述したとおり、時代の区分となりうる大きな出来事があった場合、それ以降が「現代」になり、それ以前の時代は「現代」ではなくなるからである。その際、歴史がこの後にどのように変化していき、区分となる出来事として何が起きるのかを誰も予想できないため、「この今の時代」が「近代」に分類されるのかどうかも予想できない。
アジア
アジア史では、概ね1945年9月2日の大日本帝国の降伏(第二次世界大戦終結)を境にして、「近代」と「現代」に分けられている。
日本を初めとするアジア各国では、1945年の第二次世界大戦の終結により、欧米日の植民地支配から独立した国家が多数成立し、1945年までの既存国家も政体が変わって新国家に生まれ変わった。これらの国家は、第二次世界大戦末期のヤルタ会談に始まる冷戦体制の下で独立・成立した国家が多い。これらの中には、朝鮮半島やベトナムのように分断される国家も現れた。ただし、ベトナムのように分断を解消して統一を実現した国家では、統一後の時代(ベトナム史では、1976年のベトナム社会主義共和国の成立以後)が「現代」になる。
冷戦が終わり、ソビエト連邦が崩壊すると、中央アジアでは次々と独立国家が成立した。しかし、冷戦が終わり、ソビエト連邦が崩壊した後も、日本と韓国のアメリカ軍駐留、朝鮮半島の未統一、北朝鮮核問題、中国(中国共産党)の一党独裁、中国と台湾の対立の未解消に象徴される通り、東北アジアには冷戦の残滓が残されたままである。東南アジアでは冷戦時代から通して東南アジア諸国連合が結成されているが、東北アジアまで巻き込んで「亜州連合」となるような地域連合には至っていない。
ヨーロッパ
ヨーロッパ史では、東欧革命を境にして「近代」と「現代」を分ける見方が増えている。
ヨーロッパの国家は2度の世界大戦を経験したが、2度の世界大戦は植民地主義の段階的な崩壊を意味した。第二次世界大戦の勝戦国(連合国)も、アメリカ合衆国を除き打撃は大きかった。帝国日本の降伏により第二次世界大戦が終わった途端、アジアの植民地では独立戦争が始まり、やや遅れてアフリカの植民地も次々と独立、1960年代までにヨーロッパの国家は植民地の多くを失った。2度の世界大戦は植民地主義が極限に達して始まったが、第二次世界大戦が終わっても凝りは残った(例:2度の世界大戦を巡る独仏関係)。冷戦という二極体制も、欧米の第二次世界大戦の最高権力者が作ったシステムである。
ところが、東欧民主化革命・ベルリンの壁崩壊・冷戦終結・ソビエト連邦崩壊というカドラプルパンチは、欧米の第二次世界大戦の最高権力者が作ったシステムの崩壊を意味した。そして、冷戦終結後のヨーロッパは、欧州連合に象徴されるように、東欧民主化革命やソビエト連邦崩壊によって成立した国家も巻き込んで、「ヨーロッパは一つ」の動きを強めている。そして、現在の「ヨーロッパは一つ」の動きは、冷戦の44年間を通して西ヨーロッパ諸国が作った「正の遺産」でもあり、旧ソ連諸国を除いたヨーロッパの統合が急速に進んだ。
一方で、1970年頃から興った近代を批判的に捉え直すポストモダン(postmodern)という運動も、「近代」の枠組みの中に入っているのではないかという議論もある。
軍事史
軍事史では、大量破壊兵器と無差別大量虐殺を特徴とする戦争の時代が、「現代」と見なされている。この場合、第二次世界大戦以後が「現代」と見なされている。
普仏戦争や日露戦争や第一次世界大戦など、第二次世界大戦前の「近代」の戦争は、戦車や戦艦などの最新鋭の兵器が使用されたが、殺傷する/殺傷される対象は戦闘員(=軍人)に限定されていた。
ところが、第二次世界大戦では、殺傷する/殺傷される対象は非戦闘員にまで拡大され、非戦闘員を狙った無差別爆撃や、大量破壊兵器の一種である核兵器の使用も実施された。そして、第二次世界大戦以後は、核兵器のような大量破壊兵器が「戦争抑止力」や「開戦の口実」として国際社会を動かしている。
- 関連書籍
- 『岩波小事典 現代の戦争』前田哲男著
文化史
美術や建築やファッションなど文化の歴史では、購買者たる大衆が文化の担い手になっている時代が、「現代」と見なされている。この場合、第二次世界大戦終結後が「現代」と見なされている。
「近世」と「近代」の文化は、大商人が作った都市文化と、農村など地方庶民が作った地方文化の2つに分かれる傾向が大きかった。強力な統一政府や連邦政府の下で、交通網が整備され、商人は力を増して都市文化を形成し、その担い手になっていた。一方で、農村など地方には、大商人が作った都市文化には瞬時に浸透せず、幾らか時間を経てから都市文化が浸透したり、地方で独自の文化が形成されるかのいずれかの傾向を持っていた。
ところが、第二次世界大戦が終わると、テレビやラジオなど情報が瞬時で遠隔地に伝わるメディアが普及し、多国籍企業の成長による商取引のグローバリゼーションが加速したことで、「都市と地方に二極化した文化」の時代から、「同時多発的な大衆文化」の時代に文化は変わった。