犬童頼兄
犬童 頼兄(いんどう よりもり / よりえ[1]、永禄11年(1568年) - 明暦元年7月12日(1655年8月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。相良氏の家臣。犬童頼安の子。子に相良頼安。幼名は熊徳丸。通称は軍七(父と同名)。
生涯
永禄11年(1568年)、肥後国南部の大名・相良氏の家臣である犬童頼安の子として誕生。
はじめは延命院の稚児であったが、父・頼安が島津氏との戦いで水俣城を守った際に寺を抜け出して共に籠城したことから、以後は武将として仕えた。深水長智はその才覚を認め、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが竹下監物に反対されたため、藩主・相良頼房の許しを得て、甥の深水頼蔵と同席とし2人を後継の奉行とした。しかし、両者は非常に不仲であり、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせている。
頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄となる(関ヶ原の戦い後、同じ兵部少輔である井伊直政をはばかって清兵衛尉と改める)となった。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房とともに渡海している。
文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子らの知行が、太閤検地により真先に召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人は湯前城に籠城する事態が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていく。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍についたが、9月15日の本戦で西軍が大敗すると、頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
頼房の死後は相良頼寛に仕えたが、頼寛とは折り合いが悪く、寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と江戸幕府に訴えたため、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された[2](相良清兵衛事件)。頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地であり、屋敷があったことに由来している。
明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。法名は天金本然大居士。
なお、頼兄流刑の頃には嫡子・頼安は死去し、その子である相良頼章は実母が島津家久の娘である縁から薩摩国島津氏預かりの身となり、子孫は島津家臣として仕えた。また『人吉市史』によれば、頼兄の流刑先に同行した従者の1人である印藤(犬童)九郎右衛門が実は頼兄の子で、その子である四郎右衛門長矩が小姓として津軽藩に仕え、後に田浦の姓を与えられたとする説を記述している。
相良清兵衛屋敷
頼兄の屋敷は相良清兵衛事件の際に、頼兄の養子である田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が火を放ったために焼失したが、後にその遺構から地下室が発見された。絵図によると、屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」と書かれた位置から発見されている。
地下室の構造は、石積みの階段、踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていたが、これとほぼ同じものが、嫡子・頼安の屋敷内の蔵に当たる位置からも発見されている。井戸を持つ地下室の発見例は世界的に例がなく[3]、またこの地下室が作られた目的はいまだ解明されていない。
現在、屋敷跡には「人吉城歴史館」が建設されており、地下室も建造当初の形に復元され、上から覗き見ることが可能となっている。