犬童頼安
犬童 頼安(いんどう よりやす、大永元年(1521年) - 慶長11年11月7日(1606年12月6日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。相良氏の家臣。犬童重安の子。子に犬童頼兄。通称は軍七。出家して伝心、還俗後に再出家して休矣と名乗る。官途は美作守。
生涯
大永元年(1521年)、肥後国南部の大名・相良氏の家臣である犬童重安の子として誕生。
大永4年(1524年)、犬童一族は相良長定の謀反に与したため一族全て殺されたが、頼安は4歳という幼少であったため、出家することで助命された。出家して「伝心」と名乗り、天文14年(1545年)に復讐を果たさんと相良治頼に与して相良家の本家と戦うが敗北して逃亡し、その後は各地を修行して回った。
弘治2年(1556年)、帰参を許されて相良氏の家臣として上村地頭となり、永禄2年(1559年)の獺野原の戦いで軍功を立て、天正5年(1577年)3月には深水下総守と交代し水俣城の城主となった。天正9年(1581年)に島津氏に水俣城に侵攻すると籠城して戦った。この時に、頼安は敵将・新納忠元と連歌の応酬をしながら争ったという(忠元が「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」と詠んで射掛けたところ、頼安は「寄せては沈む 月の浦波」と詠んで射返した)。
その後、相良氏は島津氏に降伏し、主君・相良義陽が響野原の戦いで戦死すると、頼安は豊福から人夫を集め、戦死した場所へ廟所を立てさせている。また義陽の死後は相良頼房を補佐し主家の存続に尽力、頼房と共に島津氏の豊後攻めにも従い、相良氏が豊臣秀吉の元で再び独立を果たした際にも頼房の奉行として嫡子・頼兄と共に活躍した。
慶長11年(1606年)に病死。法名は天息休矣。冨ヶ尾山に葬られた。なお、7人の家臣が殉死しているが、その殆どが水俣城が攻撃された際に新納忠元の陣営から寝返り、名を変えてそのまま家臣となった者とされる[1]。
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 水俣城明け渡しの際、この者達への引き渡しを忠元より要求されたが、頼安はこれを拒み、もし必要ならば一戦の上で受け取られよと述べ、忠元を諦めさせている。(『人吉市史』)