源順
源 順(みなもと の したごう、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫・左馬允源挙(みなもと の こぞる)の次男。子に貞がある。下総権守・和泉守等を歴任し、極官は従五位上、能登守。
生涯
嵯峨天皇の子であった大納言源定を祖とし、その子源至は左京大夫に進んだ。だが、至の子である挙は正七位下相当にしか進めず、しかも延長8年(930年)には急死している。順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、20代で日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した。天暦5年(951年)には和歌所の寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した。漢詩文に優れた才能を見せる一方で、天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めるなど和歌にも才能を発揮した。特に斎宮女御徽子女王とその娘規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮規子内親王の伊勢下向の際も群行に随行した。だが、彼の多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも2年後の天暦7年(953年)、順が43歳の時のことであった。その3年後に勘解由判官に任じられる。その後、応和2年(962年)民部少丞・東宮蔵人、翌年には民部大丞に任ぜられ、康保3年(966年)に従五位下下総権守に任じられ(ただし、遥任)、翌年和泉守に任じられるなど、その後は受領として順調な昇進を遂げるが、源高明のサロンに出入りしていたことが安和の変以後に影響を与え、天禄2年(971年)の和泉守退任後、天延2年(974年)に従五位上に叙せられたとはいえ、天元3年(980年)に能登守に補任されるまで長い散位生活を送った。能登守在任中に卒去。
三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられる。
官歴
※ 日付=旧暦
- 951年(天暦5)10月、和歌所寄人。
- 953年(天暦7)10月、文章生に補される。
- 956年(天暦10)1月27日、勘解由判官に任ぜられる。
- 962年(応和2)1月22日、民部少丞に任官。東宮蔵人を兼帯。
- 963年(応和3)1月28日、民部大丞に転任。
- 966年(康保3)1月7日、従五位下に昇叙(省労)し、民部大丞如元。同27日、下総権守に転任。
- 967年(康保4)1月20日、和泉守に転任。
- 974年(天延2)1月25日、従五位上に昇叙(治国)。
- 980年(天元3)1月29日、能登守に任命。
- 983年(永観元)現職のまま卒去。
系譜
- 父:源挙
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:源貞
参考文献
- 神野藤昭夫「源順の官職・位階と文学」(日向一雄 編『王朝文学と官職・位階』(竹林舎、2008年(平成20年)) ISBN 978-4-902084-84-9)