淡路仁茂

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淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は、将棋棋士棋士番号は113。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。名人戦A級通算1期。

棋歴

関西三段リーグで1970年、1972年に優勝するが、東西決戦で敗れて四段昇段を逸する。そして、1974年に3度目の優勝をし、「3度目は東西決戦不要」の規定により四段昇段してプロデビューする。

1977年度、入るのが難しいとされる十段リーグ(第16期)と王将リーグ(第27期)のメンバーとなった。この年度は、将棋大賞の新人賞、最多勝利賞(43勝)、最多対局賞(65局)を受賞した。

1979年度、第35期棋聖戦で、中原誠への挑戦者となる。五番勝負は敗退したが、将棋大賞の敢闘賞を受賞。

第40期(1981年度)、第41期(1982年度)の順位戦で、それぞれ8勝2敗、9勝3敗の成績を収め、2年連続昇級でA級八段となる。

第43期(2002年度)王位戦でリーグ入り。森内俊之南芳一に勝利するが、リーグ残留失敗。翌年の第44期(2003年度)王位戦で、またもリーグ入り。佐藤康光らに勝利するが、リーグ残留失敗。

棋風

受けにおいて粘り強い棋風を持ち、不倒流[1]と呼ばれる。

また、対局の手数が多いことから、三枚目の男という異名がついた。当時、棋譜を記録する用紙には一枚に80手までしか記入できなかったため、160手を超えると3枚目の記録用紙に書くことになる。その回数が非常に多いことからついたネーミングである。

さらに、六段時代の1981年には王位戦予選で中田章道と339手の将棋を指し、勝利した。この対局は入玉を含まない対局としては2014年現在も公式戦の最長手数である。後に『将棋世界』の付録にて、この将棋をとりあげた際に、自ら「長手数の美学」と題をつけた。こちらも淡路を良く表すキャッチフレーズとして、用いられるようになった[2]

後手番一手損角換わり戦法の産みの親であり、升田幸三賞を受賞した。また、現代矢倉の基礎的な変化をまとめた功績もある。

反則負け

反則を犯した回数が全棋士中1位である。内訳は、二歩が4回、二手指し(相手が指す前に2回続けて指す)が2回、さらに角筋の間違いが1回の計7回である。

対戦相手等の内訳は以下の通りである。

あまりの反則の多さに、2005年NHK衛星第2テレビで放映された「大逆転将棋」の「プロ反則負け特集」で、反則の回数が通算5回以上ということで、米長邦雄永世棋聖から「永世反則王」の称号を与えられるという演出があった[4]

また、2007年6月、竜王戦で大内延介と対局して時間切負けをしている。本人はこの件について「記録係が淡路に対して行っていた秒読みを隣で対局していた対局者の秒読みだと思い込んでいた。」と述懐している。

反則の多さについては、淡路自身も意識しているのか、上記「プロ反則負け特集」の司会をした神吉宏充の証言によると、神吉が反則負けをした際には、直後にうなだれる神吉のもとに駆けつけ、「君も(反則を)やったか!」と喜んだという。

人物

昇段履歴

昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。

主な成績

タイトル挑戦

登場回数合計1、獲得合計0

一般棋戦優勝

優勝合計 1回

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

  • 第5回(1977年度) 新人賞・最多対局賞・最多勝利賞
  • 第7回(1979年度) 敢闘賞
  • 第33回(2005年度) 升田幸三賞(後手番一手損角換わり)

その他表彰

  • 1998年 現役勤続25年
  • 2003年 将棋栄誉賞(通算600勝達成)

著書

  • 早指し将棋の指し方(1980年11月、成美堂出版、ISBN 4-415-04619-3)

脚注

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  1. 「不倒流」は原田泰夫による命名。
  2. 「将棋世界」2009年1月号「感想戦後の感想」
  3. この時、5七と6六に淡路の角があった。無論、6六の角が1一に成るのは反則ではない。
  4. ただし、この称号は日本将棋連盟に公的に存在するものではなく、あくまで同番組における演出の一環として設けられた架空の称号である。
  5. 「将棋世界」2009年6月号「トップ棋士vs新鋭棋士 指し込み2番勝負!!」
  6. 玲瓏・羽生善治データベース

関連項目

外部リンク

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