浅野長矩
テンプレート:基礎情報 武士 浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。元禄赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。
生涯
赤穂藩主
寛文7年8月11日(1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎。
寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年1月26日(1675年2月20日)に長友が死去。また生母である内藤氏の波知も寛文12年12月20日(1673年2月6日)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。
延宝3年3月25日(1675年4月19日)、長矩は9歳で赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日(5月1日)には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(6月16日)には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組が幕府に出願され、8月8日(9月27日)になって受理された。これにより阿久里は延宝6年(1678年)より赤穂藩の鉄砲洲上屋敷へ移った。
延宝8年8月18日(1680年9月10日)に従五位下に叙任し[1]、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた[2]。
天和元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月23日(1684年10月4日)、15歳にして山鹿素行に入門して山鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年3月28日(1682年5月5日)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中足守藩主・木下公定であった。
天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠・千種有能の饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき高家・吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。
勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。またこの結婚と前後する5月18日には家老・大石良重(大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。
しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石良雄もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。
この年の6月23日(8月15日)にはじめて所領の赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。
江戸在留中の貞享元年8月23日(1684年9月24日)に弟の長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。
江戸在留中の元禄3年12月23日(1691年1月21日)に本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した[3]。
元禄6年(1693年)12月22日(1694年1月17日)には備中松山藩の水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の城請取役に任じられた。これを受けて長矩は、元禄7年2月18日(1694年3月24日)に総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴いた。2月23日(3月18日)、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取った。長矩は開城の翌日には赤穂への帰途についたが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させ、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの1年9か月の間、浅野家が松山城を管理することになる。
また元禄7年8月21日(1694年10月9日)、阿久里との間に子がなかったため、弟の長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3,000石を分知して幕府旗本として独立させた。さらに翌元禄8年12月29日(1696年2月2日)には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。なお「長矩危篤」の報は原元辰(足軽頭)を急使として大石良雄ら国許の重臣にも伝えられた[4]。
しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年5月頃(1696年6月頃)には完治した。この前後の5月9日(6月8日)火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年8月1日(1698年9月4日)に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年6月16日(1700年7月31日)には桜田門御番に転じた。同年11月14日(12月23日)には弟・長広と土方雄豊の娘の婚儀が取り行われた。
そして元禄14年2月4日(1701年3月13日)、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。
殿中刃傷
テンプレート:Sister 浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこのとき吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのためそれまでの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と見るむきもある。
一方、東山天皇の勅使の柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使・清閑寺熈定の一行は、2月17日(3月26日)に京都を立った。勅使の品川(現東京都品川区)到着の報告を受けて長矩も3月10日(4月17日)に伝奏屋敷(現千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部)へと入った。そして3月11日(4月18日)に勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中・土屋政直と高家・畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使御馳走人の浅野も紹介された。3月12日(4月19日)には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍・徳川綱吉に下賜する儀式が執り行われ、3月13日(4月20日)には将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれた。この日までは長矩は無事役目をこなしてきた。
そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。ところが、儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番・梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ、長矩が背後から近づいてきて、突然吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で刃傷に及ぶ。梶川が書いた『梶川筆記』によれば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。しかし浅野は本来突く武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏と畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられる(『江赤見聞記』『田村家お預かり一件』などが「坊主部屋」と明記している)。
長矩への「取調」
捕らえられた長矩が何と答えたかについては確かな史料は無い。それどころか実は取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。
ただ幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行い、その際に長矩は「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。あとは「上野介はいかがに相成り候や」と吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。
午の下刻(午後1時50分頃)、奏者番の陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。
長矩への処断
この護送中に江戸城で長矩の処分が決定していた。尊皇心が厚い将軍・綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。『多門筆記』によると、若年寄の加藤明英、稲垣重富がこの決定を目付の多門に伝えたが、多門は「内匠頭五万石の大名・家名を捨て、お場所柄忘却仕り刃傷に及び候程の恨みこれあり候は、乱心とても上野介に落ち度これあるやも測りがたく(略)大目付併私共再応糾し、日数の立ち候上、いか様とも御仕置き仰せつけられるべく候。それまでは上野介様も、慎み仰せつけられ、再応糾しの上、いよいよ神妙に相い聞き、なんの恨みも受け候儀もこれなく、全く内匠頭乱心にて刃傷に及び候筋もこれあり候はば、御称美の御取り扱いもこれあるべき所、今日に今日の御称美は余り御手軽にて御座候」と抗議したという。これを聞いて加藤と稲垣も「至極尤もの筋。尚又老中方へ言上申すべし」と答え、慎重な取り調べを老中に求めてくれたというが、結局は大老格側用人・柳沢吉保が「御決着これ有り候上は、右の通り仰せ渡され候と心得べし」と称して綱吉への取次ぎを拒否したため、即日切腹が確定したのだという。
刃傷事件はこれまでも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、政治的意味合いもあったようだ。長矩の母方の叔父・内藤忠勝が同じような事件を起こしたことがあるにも拘わらず近親者が同様の事件を起こしたことから、これまでの処罰の軽さが今回の事件の一因となったと考えた可能性も高い。
長矩切腹
以下は一関藩の『内匠頭御預かり一件』による。
申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされたという。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを二杯所望したという。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしたという。申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。
宣告が終わると直ちに長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、障子が開けられて、庭先の切腹場へと移された。長矩は庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。
『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩が「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいのおかげで最後に一目、片岡高房が主君・長矩に目通りできたともしている。
しかし、これはいずれも『多門筆記』にしか見られない記述である。『多門筆記』では、柳沢出羽守とかくべきところを美濃守と書いてあったり仙石伯耆守であるべきところをのにに改名した丹後守になっていたり、刃傷事件現場について「畳に夥しいほどの血が」というように大げさな記述があったりと、信用出来ない記述があまりにも多い。「多門筆記は後世の別人の作」という見方はかなり有力であり、この辞世は、春風に吹かれて夜桜が散っているという情景と自らの心境を重ねたものであるが、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後の可能性が高い。
さらに『多門筆記』によれば長矩の切腹場所が一国一城の主にあるまじき庭先である事について多門は庄田安利に抗議したという。しかし庄田は「副使のくせに正使である拙者に異議を唱えるな」とまともに取り合わなかったのだという。例によって多門の自称なので疑わしく見えてくるが、庄田は翌年高家・大友義孝(吉良義央の同僚で友人)や東条冬重(吉良義央実弟)など吉良派の旗本たちと一緒に呼び出され、「勤めがよくない」として解任されてしまっていることから、どうやら庄田が吉良寄りと思われるような態度をとったことは間違いないようだ。
なお比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』の方には長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。
その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。
遺臣・大石良雄たちのその後は、元禄赤穂事件の項を参照のこと。
刃傷の理由
長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。 これに限らず、刃傷事件の原因のほとんどは真相不明である。
- 対立の理由
- 院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より進物が少なかった(諸書)。
- 勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(諸書)。
- 長矩夫人の阿久里に吉良が横恋慕した(『仮名手本忠臣蔵』の影響で広まった)。
- 吉良が皇位継承問題に介入したため、尊皇家・山鹿素行の門下である長矩が怒った(『元禄快挙別禄』)。
- 長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)。
- 浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)。
- ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)。
- 悪名高い吉良に長矩が天誅を下そうと思った(『赤城盟伝』)。
中でも賄賂説がもっとも一般的で『忠臣蔵』の映画やドラマ、小説などは大抵この説を採用する。吉良は賄賂をむさぼるのが好きで長矩が賄賂を拒否したために辱められたという記述は『徳川実紀』にも記されているが、実記編纂時の巷説である。「賄賂」は「まいない」とも読み、日常的に行われていたことである。
横恋慕の筋書きは、仮名手本忠臣蔵が下敷とした太平記において、忠臣蔵で吉良を仮託した高師直が長矩を仮託した塩冶判官を陥れてその妻を奪おうとしたくだりからきたものである。
また、近年主張されるようになった説に三河国吉良庄の一部で製造されている饗庭塩の出来が悪いため、出来がいいことで評判の赤穂塩の製造方法を聞き出そうとしたが断られた、もしくは江戸の塩市場の争いとなったのではないかとする説を吉良出身の作家の尾崎士郎が唱えていた。しかし、実際には吉良義央の領地にあったとされる塩田の遺跡は旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。
水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄・神崎則休・富森正因・萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』の中にある「浅野氏滅亡之濫觴」によると「例年1200両かかる勅使饗応役の費用を浅野家は700両しか出さず、吉良がこれに異議を唱えたので両者が不和になり、刃傷の原因となった」とあり、浅野家の費用出し惜しみ説をとる(一度目の御馳走人の時に対して元禄時代は大幅に物価が上がっていた)。浅野長矩と同時代の人間であり、しかも赤穂藩士にも近い人物の証言であるので今のところこれがもっとも有力ではないかと注目されている。
- “苛め”の内容
- 勅答の儀の日の礼服は烏帽子大紋なのに長裃でいいと吉良が嘘を教えた。
- 勅答の儀の時刻につき吉良が嘘を教えた。
- 料理について「勅使様の精進日であるから精進料理にせよ」と吉良が嘘を教えた。
- 増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに吉良は長矩にだけ教えなかった。
- 長矩の用意した墨絵を吉良は「勅使様に無礼である」として金屏風に変えさせた。
- 吉良が上からの指図書を長矩に見せなかった。
- 長矩は勅使を迎える位置についてたずねたのに吉良は教えてくれなかった。
長矩はこれで二度目の勅使饗応役であったことを考えれば不自然なものが多く、また長矩が失敗すれば指南役である吉良も責任を問われるため、吉良がこのようなことをするとは思えないと考える義士研究家が多い(そもそも前述のように吉良は上洛中で江戸に居なかった)。なお堀部武庸の私記には「伝奏屋敷において吉良上野介殿品々悪口致し」という記述がある。弥兵衛の私記のこの部分のみが唯一二人の具体的な対立を記す記述である。これが墨絵や金屏風のことを指すかどうかは不明。
性格
- 長矩は生来短気であったと言われ、それが諸書に見える。
- 吉良の手当てをした栗崎道有の『栗崎道有記録』は、浅野長矩は癇癪持ちであったと記す。
- 旗本・伊勢貞丈が書いた『四十六士論評』(弟の浅野長広(一説に浅野長純)から聞き取った話としている)によると「内匠頭は性格が甚だ急な人であり、吉良に賄賂を贈るべしと家臣にすすめられたときには、内匠頭は『武士たる者、追従をもって賄賂を贈り、人の陰を持って公用を勤めることはできない』と述べたという」とその剛直さを記している。
- 室鳩巣は著作『赤穂義人録』の中で「長矩は人と為り強硬(また「武骨者」と傍注をつけている)屈下せず」と頭を下げることを好まない性格であったことを記している。
- 幕府隠密が全国の大名の素行を取り調べた『土芥寇讎記』には長矩について「智有って利発なり。家民の仕置きもよろしい故に、土も百姓も豊かなり」と褒める一方で、「女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにともなって、色能き婦人を捜し求めだす輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄をむさぼり、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老に任す」、つまり「長矩は女好きであり、いい女を献上する家臣だけを出世させる。政治は子供の頃から家老に任せている」とも書かれている。しかし実際には長矩に側室は一人もおらずこの記述は事実ではない。土芥寇讎記は奇書の類で史料価値は高いとはとても言えないので鵜呑みにするのは危険である。が、諌懲後正という刃傷事件を引き起こす直前に書かれた土芥寇讎記と似た性質を持つ書物にも「無骨で真面目ではあるが労りの心がない」と評されており、更には奥方の下女に非道を働き、「この家は危ない」と世間で噂されていたとも書かれている。
- また長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたという逸話があるが真相は不明(統合失調症との説もある)。
- 延宝8年(1680年)6月26日には、第四代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることから、母方の遺伝子説を唱える者もいる。
家系
赤穂浅野家の家系は広島藩浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男・長重を祖とする家柄。長政が慶長11年(1606年)に、長男・幸長の紀伊37万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に5万石を慶長16年(1611年)の長政の死後、長重が継いだことに始まる。長重は元和8年(1622年)、常陸笠間に転封。寛永9年(1632年)に長重が死去すると嫡男・長直が跡を継ぐ。
正保2年(1645年)長直は赤穂へと転封となる。長直は、赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、藩政の基礎を固めた名君として知られる。長直の後は嫡男・長友が継承、そして長友の嫡男が長矩である。
- 凡例
- 実線は実子。点線は養子。
- 横破線は婚姻関係。
- 太字は赤穂藩主。数字は藩主継承順。
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脚注
関連項目
- 元禄赤穂事件
- 忠臣蔵
- 大石良雄
- 赤穂浪士
- 水野忠恒と毛利師就(浅野・吉良と同じ刃傷事件で、加害者の水野は改易となった)
- 大原麗子(浅野長矩の子孫にあたる)
- 塩冶高貞(『仮名手本忠臣蔵』で、浅野長矩の姿を仮託された人物)
- ↑ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。
テンプレート:Quotation
- 訓読文
- 上卿(しゃうけい) 小倉大納言。
- 延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
- 源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。
- 蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
- ↑ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。
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- 訓読文
- 上卿 小倉大納言。
- 延宝8年(1680年)8月18日宣旨。
- 従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。
- 蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)
- ↑ 元禄11年9月6日(1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。
- ↑ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。