霊元天皇
霊元天皇(れいげんてんのう、正字体:靈元天皇、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(退位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。
系譜
後水尾天皇の第十六皇子。母は内大臣園基音の娘で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。左大臣従一位鷹司教平の娘房子を中宮とする。
- 中宮:藤原(鷹司)房子(新上西門院)(1653-1712) - 鷹司教平女
- 典侍:藤原(坊城)房子(権大納言典侍)(1652-1676) - 坊城俊広女
- 第二皇女:憲子内親王(1669-1688) - 近衛家熙室
- 典侍:藤原氏(中納言典侍)(1653-1691) - 小倉実起女
- 典侍:藤原(松木)宗子(敬法門院)(1658-1732) - 松木宗条女
- 掌侍:源(愛宕)福子(源内侍局)(1656-1681) - 愛宕通福女
- 第二皇子:寛隆法親王(1672-1707)
- 第四皇女:綱宮(1675-1677)
- 掌侍:菅原(五条)庸子(少将内侍)(1660-1683) - 五条為庸女
- 掌侍:源(東久世)博子(源中将局)(1672-1752) - 東久世通廉女
- 後宮:平氏(多奈井小路局)(?-1674) - 西洞院時良女
- 第一皇女:知光院宮(1669)
- 後宮:菅原(五条)経子(菅中納言局)(1673-?) - 五条為庸女
- 後宮:藤原氏(藤式部局)(?-1746) - 今城定淳女
- 後宮:藤原(入江)伊津子(兵衛局)(?-1763) - 入江相尚女
- 第十四皇子:嘉智宮(1709-1713)
- 第十二皇女:留宮(1711-1712)
- 後宮:安倍氏(中将局)(1691-1753) - 倉橋泰貞女
- 第十五皇子:峯宮(1710-1713)
- 後宮:秦(松室)敦子(右衛門佐局)(?-1746) - 松室重敦女、岩倉乗具猶子
- 後宮:秦氏(少将局)(1702-1728) - 南相忠女
- 第十四皇女:八重宮(1721-1723)
- 後宮:秦(松室)仲子(少納言局)(1707-1751) - 松室重仲女、愛宕通晴猶子
- 第十七皇子:尊胤法親王(1715-1740) - 知恩院門跡
系図
経歴
承応3年(1654年)、長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近らは天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条)。また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかった事から、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。万治元年(1658年)1月に親王宣下をおこなった。寛文2年(1662年)12月に元服し、翌3年(1663年)1月、兄の後西天皇から譲位されて践祚した。
治世の最初は父である後水尾法皇に院政を敷かれていたが、延宝8年(1680年)、後水尾法皇の崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は父の遺した路線を一歩進めて皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に冷遇された。また、性格的に奔放な部分があり、側近の若い公家たちとともに問題行動を起こすこともあり、これを諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例があった。寛文9年(1669年)には武家伝奏正親町実豊らの排除を画策し(翌年蟄居)、寛文11年(1671年)には側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こしている。天和元年(1681年)、法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、これに反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする「小倉事件」を引き起こす。次いで同2年(1682年)、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼が小倉事件における自分の措置に対して批判的であると睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させるという贔屓の人事を行って、京都所司代稲葉正往を驚愕させた。同3年(1683年)には、意中の皇位継承者であった朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させた。ただしこの時期の将軍であった徳川綱吉は朝廷尊重を掲げていたため、朝幕関係は比較的安定していた。
貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)への譲位にこぎつけた後に仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いた事に加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮・東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇にも同様な事を許す考えは無かった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。
だが、朝廷内にも強い反対派が存在した。左大臣近衛基熙である。彼は幕府と連携してこの朝廷と幕府の決裂という事態を防ごうとしたが、上皇にはこうした動きをする基熙を「親幕派」とみなして激しく嫌った。だが、元禄6年(1693年)に一条兼輝が辞任すると、後任関白の候補は近衛基熙しかおらず、やむなく基熙を関白に任じた。だが、将軍徳川綱吉もまた個人的に基熙を嫌っていたために霊元院政に代わる近衛基熙体制も容認しがたく、幕府と関白が連携して院政(仙洞御所において行われる政治)を抑えるまでには至らなかった。
元禄7年(1694年)、東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する。だが、東山天皇は今まで上皇が全てを握って自分が無力であった事に不満を抱いており、近衛基熙の補佐を得て親政を開始して幕府との関係改善をはかった。一方、幕府もこの動きを歓迎して天皇親政の支援に動き出した。それは綱吉が近衛基熙を嫌う一因となっていた徳川家宣(綱吉の甥で基熙の娘婿)と和解して自己の後継者に指名した事で拍車がかかった。一方、霊元上皇も近衛基熙に不満を抱く他の摂家と連携してしばしば東山天皇、またその後の中御門天皇の治世に掣肘をくだした。また、従来の反幕府の態度を一転させて皇女八十宮吉子内親王と将軍徳川家継の婚約を実現させて中御門天皇と近衛基熙を出し抜いて幕府との連携に転じるが、こちらは家継死去のために挫折に終わった。後水尾天皇と並んで長期に亘って院政(仙洞御所において行われる政治)を行い、朝廷政治に重きをなした。正徳3年(1713年)8月に落飾して法皇となる。法名は素浄。享保17年(1732年)8月に崩御、78歳。
歌道および諸芸に秀でる
霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。
また、桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書の帝王でもある。霊元院の自筆の書は、近臣の手を経て、柳沢家などの極限られた大名家に伝世し、家宝として相伝されている。 有栖川流書道は、この天皇の書風から派生したことでも知られる。 また、中院通躬らを上卿として柿本人麻呂に神階を贈った。
在位中の元号
諡号・追号・異名
遺諡により、孝霊天皇・孝元天皇の諡号を採って「霊元院」と追号される。大正以後は「霊元天皇」と表記される。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。公式形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
参考文献
- 宮内省図書寮 編『霊元天皇実録』1~3巻(ゆまに書房、2005年) ISBN 4843320315
- 久保貴子『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』(岩田書院近世史研究叢書、1998年) ISBN 4872941152
- 山口和夫「霊元院政について」 今谷明・高埜利彦 編『中近世の宗教と国家』(岩田書院、1998年) ISBN 4872941209 p311~p342
- 田中暁龍『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館、2011年) ISBN 464203448X