池田利隆
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池田 利隆(いけだ としたか)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代。
生涯
天正12年(1584年)9月7日、池田輝政の長男として美濃岐阜に生まれる。羽柴氏を与えられて称した[1]。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いに父と共に東軍方で参戦する。慶長8年(1603年)2月、異母弟の忠継が備前岡山藩主に任じられると、幼年の忠継[2]に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当し、慶長9年(1604年)には慶長検地と呼ばれる領内検地を実施した[3]。また兵農分離を行ない、前岡山領主であった宇喜多秀家や小早川秀秋らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制を確立した。
慶長10年(1605年)、従四位下侍従に叙任され右衛門督を兼任した(このときは豊臣姓)[4]。同年に徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。慶長12年(1607年)6月2日、武蔵守に転任して松平姓を賜り松平武蔵守利隆と名乗った[5]。慶長18年(1613年)1月、父の輝政が死去したため、6月に家督を継いだ。その際に父輝政の後室・良正院の化粧料である西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)10万石を弟の忠継に分与し、姫路藩の所領は42万石となった[6]。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に与し[7]、大坂冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加した[8]。
元和2年(1616年)6月13日、義弟にあたる京極高広の京都四条の屋敷で病死した[9]。享年33。墓所は京都妙心寺の護国院、岡山県和意谷池田家墓所、兵庫県姫路市山野井の国清寺。家督は長男の光政が継いだ。
脚注
参考文献
テンプレート:姫路藩主- ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、29頁。
- ↑ このとき忠継は5歳だった
- ↑ この慶長検地で私徳(小作料)が否定されて江戸時代の近代的本百姓体制が整備された
- ↑ 村川前掲書、38頁。
- ↑ 村川前掲書、93頁・103頁。
- ↑ これは幕府が池田氏の勢力を弱めるために領地を分与させたといわれる
- ↑ 利隆は開戦前に豊臣秀頼から書状と兼光の刀を贈られて味方に誘われたが、拒絶して刀を返上し、書状は京都所司代の板倉勝重に差し出して恭順を誓った。しかし勝重は、書状に開封されたあとがあるのを見て「関東に対する二心がなければ秀頼からの書状は密封したまま差し出すはず。場合によっては返り忠するつもりであったのか」と詰問され、使者は懸命に利隆の潔白を訴えたという
- ↑ この尼崎合戦で、片桐且元への助勢が消極的だったために家康の怒りを招いたが、利隆は要衝の尼崎を堅守するためだったとして懸命に弁明して事無きを得た(『埋礼水』)
- ↑ 33歳という若死のため、継母の督姫に毒を盛られていたという俗説も存在する(毒饅頭事件)