水城

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水城(みずき)は、7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった。

1921年3月3日、水城跡(みずき あと)ととして特別史跡に指定。史跡指定面積15万0805.80平方メートル。

歴史

日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並々ならぬ懸念があったことが分かる。

後年、1274年文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。

構造と用途

水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の土塁である。土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていた。土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っている。

南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(しょうみずき)と呼ばれる長さ80メートルの土塁がある。これは、主要部の水城と合わせて大宰府を防御するための施設だと考えられている。

大宰府政庁跡に隣接して設けてある「大宰府展示館」では、水城を俯瞰するパノラマや、構造を示すレプリカを見ることができる。

用途の異説

水城の用途についてはこれが単なる城壁ではなく、いざという時は御笠川をせき止め、外側の空堀に敵兵が入ってきた所へ水を一気に放流してこれを押し流すためのものだとする説がある。ただし、水をせき止めるには不都合な門と木樋の存在、そして小水城の存在意義を考えると、この説は説得力に欠けるという見方もある。

現在に残る名称

関連項目

参考文献

  • 太宰府市 編、『太宰府市史』
  • 筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
  • 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6

外部リンク

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