森信雄
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森 信雄(もり のぶお、1952年2月10日 - )は、将棋棋士。棋士番号126。愛媛県伊予三島市(現四国中央市)出身。南口繁一九段門下。
目次
人物
- 幼少時父は蒸発。3兄弟の末っ子であった信雄を背負いながら母が育てた。体も小さく腕力ではかなわなかったが将棋では負けなしであったと語る。高校卒業後大阪の工場勤めに。南口の元へ弟子入りするも年齢も年齢であったため、南口も当初は推挙するつもりはなかったが熱意に押され推薦状を書く。奨励会入り後6年でプロとなる。
- 1980年の新人王戦(第11回)では、島朗を破って優勝した。
- 自身最初の弟子として育て上げたのが村山聖である。病身の村山とは通常の師弟関係を超えた親身な関わりを持った。村山は、四段昇段時に「森が師匠でなければ自分は四段にはなれなかった」と記している。『聖の青春』(大崎善生著)には、村山と森との師弟愛が描写されている。没後村山の生地で顕彰するために行われている村山聖杯将棋怪童戦に、一門が協力として名を連ねている[1]。また森門下の竹内雄悟は同大会第2回・第3回の優勝者である[2]
- かつては結婚を諦め「一生独身で行く」と覚悟を固めていた時期もあったというが、自身が開いている将棋教室の生徒からの紹介で1994年1月に結婚(仲人はミステリー作家の黒川博行が務めた)。ただなぜか弟子筋の誰にも結婚の話を教えなかったため、村山は結婚の事実をスポーツニッポン紙上の記事で知った[3]。また披露宴では、事前に招待客に対し祝辞等の依頼を全くしていなかったため、司会の神吉宏充は当日現地で祝辞の依頼に追われたという[4]。
- 阪神・淡路大震災で、弟子の船越隆文(当時奨励会2級)を喪う。福岡県から弟子入りし半年あまり経ったところで、誘惑の多い街中から、集中できる森の自宅そばのアパートに転居を薦めたが、皮肉にもそのアパートが倒壊し巻き添えとなった。そのことで森は自身を責め、弟子を取ることをやめようと決めたが、船越の母の「息子のためにも弟子を育ててください」との説得により、再度弟子を取るようになる。その後震災の記憶を忘れぬために、1月17日を一門の日として、一門で集合するようにしている。
- 趣味は写真撮影で、将棋世界誌に写真紀行を連載していたほど。
- 2001年よりフリークラスに転出。
- 2007年、約15年ぶりに昇段。この時、本人は現役を引退してから七段にと考えていたため、通知が来るまで昇段の事実を知らなかった。また、周囲からも「先生ご昇段おめでとうございます。でも(教室の)看板を変えないといけまへんなあ」「六を七に変えるだけなのに意外に大変やねえ」「七より六の方がええなあ」などと、昇段より現実問題を心配したという。
- 詰将棋作家でもあり、1985年に自身初の作品集『水平線』を刊行。『将棋世界』誌で「あっという間の3手詰」というコーナーを担当しており、超短手数(主に5手以下)の問題集を多数出版している。王手をいかに逃れるかを主題とした『逃れ将棋』を刊行し、第26回将棋ペンクラブ大賞技術部門大賞を受賞した[5]。
- 動物が好きで朝日新聞夕刊の「かぞくの肖像」にヨウムの金太郎と共に掲載された。
弟子
上記村山をはじめとして弟子が非常に多く、村山の存命中にプロ棋士になった弟子としては、増田裕司、山崎隆之がおり、その後、安用寺孝功、片上大輔、糸谷哲郎もプロ棋士になる。そして第44回奨励会三段リーグ戦(2008年10月~2009年3月)において澤田真吾と大石直嗣が同時に四段昇段、さらに第52回奨励会三段リーグ戦(2012年10月~2013年3月)でも千田翔太と竹内雄悟が同時四段昇段を決め、森一門は大所帯となる。物故者も含めて10名という棋士数は、近代将棋界の黎明期を除けば、佐瀬勇次門に次ぎ、高柳敏夫門と並ぶ。女流棋士の室谷由紀も弟子であり、奨励会も含めて弟子は多いため、同じく弟子の多い所司和晴と並べて「平成の名門」「東の所司、西の森信」と呼ぶ者もいる。
プロデビューした門下生
名前 | プロデビュー年月 |
---|---|
村山聖 | 1986年11月 5日 |
増田裕司 | 1997年10月 1日 |
山崎隆之 | 1998年 4月 1日 |
安用寺孝功 | 1999年10月 1日 |
片上大輔 | 2004年 4月 1日 |
糸谷哲郎 | 2006年 4月 1日 |
澤田真吾 | 2009年 4月 1日 |
大石直嗣 | 2009年 4月 1日 |
千田翔太 | 2013年 4月 1日 |
竹内雄悟 | 2013年 4月 1日 |
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1971年 4級で奨励会入会
- 1974年 初段
- 1976年4月5日 四段 = プロ入り
- 1984年4月1日 五段(勝数規定)
- 1992年10月15日 六段(勝数規定)
- 2007年4月1日 七段(フリークラス規定)
主な成績
棋戦優勝
- 新人王戦(第11回)
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
主な著書
- 水平線(1985年8月、将棋天国社)
- テンプレート:Cite book
- 出版当時流行していた育毛剤「スーパートニック101」にかけている。
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- 2014年の第26回将棋ペンクラブ大賞技術部門大賞を受賞している。
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監修
関連書籍
- テンプレート:Cite book 前述村山聖の師匠として森が登場する。
- テンプレート:Cite book 前述船越隆文奨励会員の師匠として森が登場する。
脚注
関連項目
外部リンク
- 日本将棋連盟プロフィール
- 森信雄の日々あれこれ 本人によるHP
- 森信雄の日々あれこれ日記 本人によるブログ
テンプレート:日本将棋連盟所属棋士 テンプレート:将棋竜王戦
テンプレート:将棋順位戦- ↑ 第11期村山聖杯将棋怪童戦開催のお知らせ 2012年7月6日
- ↑ 森信雄の日々あれこれ日記 第10期怪童戦 2011年8月22日
- ↑ 村山聖七段(当時)「僕は森先生が結婚することを、新聞を見て初めて知ったんです。弟子に言わない師匠がありますかねェ」 - 将棋ペンクラブログ・2013年8月8日
- ↑ 森信雄六段(当時)「そやな、一対一は危ないからワシが付きっきりでちょっとだけな」 - 将棋ペンクラブログ 2014年5月5日
- ↑ 第26回将棋ペンクラブ大賞 将棋ペンクラブブログ 2014年7月23日