棋聖 (囲碁)
棋聖(きせい)
目次
棋聖と呼ばれた人物
「棋聖」と尊称されるのは、歴代名手の中でも卓越した実績を残した江戸時代の本因坊道策(前聖)と本因坊丈和(碁聖)である、近年では本因坊秀策も棋聖の一人と数えられることもある[1]。また中国出身で日本で活躍し、全棋士を先相先以下に打ち込むなど輝かしい実績を残した呉清源は、「昭和の棋聖」と呼ばれている。
中国では清代初期の黄龍士に対して使っていたが、1988年に中国囲棋協会から聶衛平に棋聖の称号が与えられた。
棋聖戦
1976年創設。読売新聞社主催。日本の国内棋戦中、賞金が最高額(2009年現在、4500万円)であるため、国内のタイトルの序列では最高の位置に列せられる。またタイトル戦では現在唯一、2年に一回海外対局を行なう。
棋聖を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉棋聖」となる資格を得る。6連覇した藤沢秀行、8連覇した小林光一が、いずれも60歳を機に名乗っている。
女流戦にも女流棋聖戦がある。また韓国にも同名の棋戦があり、中国では同名の棋戦が1998年から2001年まで実施されていた。
創設
1961年から開始した名人戦において、当時「狂乱物価」とも呼ばれた中、1974年まで日本棋院からの契約金増額要請に主催者の読売新聞がほとんど応じなかったことから、日本棋院では名人戦の朝日新聞への移管を進め、1974年末に契約打切りを読売新聞に通告した。
読売新聞はこれに反発し傘下メディアを通じて日本棋院の対応を批判し続け、1975年8月には日本棋院を相手にした訴訟を起こした。同時に水面下の交渉を行い、日本棋院顧問岡田儀一による「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)とする斡旋案で、同年12月10日に和解した。この経緯は名人戦騒動として知られ、将棋の名人戦契約にも大きな影響を与えた。
方式
最高棋士決定戦方式
第1期から9期までは、各段戦、全段争覇戦、最高棋士決定戦の三段階によるトーナメント制。まず初段から九段までの各段ごとのトーナメント各段優勝戦を日本棋院と関西棋院の混合で行う。続いて初段から六段までの優勝者による勝ち抜き戦と、七、八段戦の準優勝者以上、九段戦ベスト4以上によるトーナメントを組み合わせた全段争覇戦を行う。そして全段争覇戦のベスト8以上とタイトル保持者を加えての最高棋士決定戦を行い、この優勝者が棋聖位保持者との挑戦手合七番勝負を行なう。第1期は最高棋士決定戦の決勝七番勝負で棋聖位を決定、2期以降は決勝戦は三番勝負。
また、最高棋士決定戦の出場者には、棋聖審議会の推薦棋士という枠もあり、選考に恣意的な側面も残っていた[2]。
第10期からは、全段争覇戦と最高棋士決定戦が一本化され、24期まで続いた。
棋聖戦リーグ方式
第25期以降は、棋聖戦リーグによる挑戦者決定方式に変更。まず日本棋院と関西棋院でそれぞれに院内予選を行い、それぞれの勝ち抜き者による最終予選での4名の勝ち抜き者と、前年度の挑戦者(または前棋聖)と前年度のリーグ戦の残留者の8人を加えた計12人をAリーグ、Bリーグに分けて、総当りリーグ戦を行う。両リーグの1位同士が挑戦者決定戦一番勝負を行い、勝者が前年度の棋聖位保持者と挑戦手合七番勝負を行う。リーグ戦は4位までが残留、下位2名が陥落となる。リーグ成績が同率の場合は、前年度順位で順位を決める。
予選は第28期までは日本棋院の院内予選は各段を4グループに分けて最終予選出場者を決定、関西棋院の院内予選は全棋士によるトーナメントで行われていたが、第29期以降は日本棋院東京本院と日本棋院中部総本部・関西総本部・関西棋院の2つに分けて最終予選出場者を決める。
六段以下の棋士が棋聖リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに棋聖位を奪取した場合九段へ昇段する。
第40期棋聖戦より、アマチュアもネット棋聖戦最上位のSAクラス四強入りで予選に出場ができるようになった。
棋聖戦リーグ入りした棋士:王立誠、趙治勲、淡路修三、今村俊也、楊嘉源、石田篤司、柳時熏、石田芳夫、宮沢吾朗、長谷川直、彦坂直人、張栩、三村智保、山田拓自、羽根直樹、溝上知親、依田紀基、中小野田智己、小林覚、山下敬吾、王銘エン、結城聡、本田邦久、加藤充志、小松英樹、高尾紳路、山城宏、井山裕太、片岡聡、河野臨、清成哲也、李沂修、秋山次郎、瀬戸大樹、小林光一
ルール
コミは1-27期は5目半。28期からは6目半。予選・リーグ戦は持ち時間5時間の一日打ち切り、七番勝負は8時間、封じ手による二日制で行われる。
海外対局
1998年までは毎年、1999年からは原則2年に一回、第1局は海外で行なわれている。以下1997年(第21期)以降、海外対局の行なわれた国名(都市名)を挙げる。
- 1997年 アメリカ(ハワイ)
- 1998年 中国(香港)
- 1999年 フランス(パリ)
- 2001年 台湾(台北)
- 2002年 イギリス(ロンドン)
- 2004年 アメリカ(シアトル)
- 2006年 ドイツ(ベルリン)
- 2008年 ブラジル(サンパウロ)
- 2010年 台湾(台北)
- 2014年 スペイン(アルカラ・デ・エナーレス)
歴史
棋聖戦は、前述のように「名人戦騒動」の渦中から生まれ、1976年にスタートした。当時全盛の林海峰や木谷一門の実力者たちを退け、第1期棋聖戦の最高棋士決定戦トーナメントを勝ち上がったのは、藤沢秀行・橋本宇太郎の両ベテランであった。決勝七番勝負では藤沢が70歳の橋本を4-1で降し、初代棋聖の座に就いた。
翌1977年の第2期は、四冠を保持する挑戦者・加藤正夫を迎え、藤沢はたちまち1勝3敗に追い込まれる。このカド番・第5局で藤沢は、2時間57分という大長考を払って加藤の大石を全滅させ、気迫の勝利を挙げた。最終局でも藤沢は半目差で逃げ切り、大逆転での防衛を果たした。
以降藤沢は超一流の挑戦者を迎えるも毎年ことごとく撃退、50代で棋聖戦6連覇を果たした。しかし1983年の第7期、挑戦者の趙治勲は3連敗から残り4番を連勝して棋聖を奪取、世代交代を果たした(藤沢はこの時期胃ガンが進行していた)。
1986年、3連覇を果たした趙は兄弟子の小林光一を挑戦者に迎えるが、直前に交通事故で両足と左手を骨折する重傷を負う。不戦敗やむなしとの声もあった中、趙は車椅子で対局に臨み、逆境の中2勝を挙げるが力尽き、小林に棋聖を明け渡した。以降小林は8連覇を果たし、碁界の第一人者として君臨する。この間、加藤正夫は3度棋聖に挑み、奪取すれば趙に続くグランドスラム達成となったが、全て小林の壁に阻まれた。
1994年、小林の連覇を止めたのは、宿命のライバル・趙であった。その翌年、小林覚が挑戦者として登場。初挑戦にして趙を降して棋聖の座に就く。しかし翌年には趙がすかさず奪回。するとその翌年、再び小林覚が挑戦者となり、3年連続同一カードとなった。趙はこの対決を制し、再び大三冠に君臨した。
2000年、趙の5連覇による名誉棋聖獲得を阻んだのは王立誠であった。王の3連覇目、挑戦者に柳時熏を迎えた第5局で、柳はダメ詰めの最中にアタリを放置、王がこれを打ち抜いて逆転勝ちするという事態が生じた。立会人裁定で王の勝利が認められたが、ルール・マナー・美学など様々なレベルで物議を醸すことになった。
2001年、推薦棋士枠の存在や、出場人数が年ごとに一定しないことなど、批判の声があった最高棋士決定戦方式を取りやめ、挑戦者選定はAリーグ・Bリーグに6人ずつ属する2リーグ制に変更となった。
2003年、山下敬吾が挑戦者として登場。第4局の封じ手でハナヅケの妙手を放つなど王を圧倒し、4-1で棋聖を奪取する。しかし翌年は羽根直樹の粘りに屈し、1年で棋聖を明け渡した。2005年には結城聡が挑戦権を獲得、関西棋院の棋士として28年ぶりの七番勝負に挑んだが、3勝2敗から後を連敗し、関西の悲願は成らなかった。
翌2006年は山下敬吾が4-0のストレートで棋聖を奪回、翌年の小林覚の挑戦も4-0で降し、実力を見せつけた。2008年には「七番勝負の鬼」趙治勲を挑戦者に迎えたが、乱戦に次ぐ乱戦を制してフルセットで山下が防衛、翌2009年には、実力者依田紀基をも4-2で撃破し、4連覇を達成した。2003年から2010年まで、1期を除いて山下は毎年挑戦手合に登場しており、現代の「棋聖戦男」と呼ばれた。
2010年、山下が5連覇による名誉棋聖獲得、挑戦者の張栩がグランドスラムの達成、という対局者双方に大きな記録を懸けた勝負となった。結果は張栩が4-1で山下を降し、山下の名誉棋聖を阻むと共に史上二人目のグランドスラムを達成した。
2011年、前期にグランドスラムを達成した張栩と挑戦者井山裕太によって争われた。張栩が、3勝2敗で防衛に王手を掛けた第6局2日目の3月11日には、山梨県甲府市のホテルも地震に見舞われ、8分の一時中断後打ち切り、張栩が1目半勝で防衛に成功した。翌2012年も高尾紳路の挑戦をフルセットの末に降して3連覇を果たすが、2013年には井山裕太の再挑戦の前に4-2で棋聖を明け渡す。井山は23歳で史上最年少棋聖となると共に、史上初の六冠王、3人目のグランドスラム達成を果たした。
第37期まで、棋聖を冠したのはわずか9人。そのうち藤沢秀行、趙治勲、小林光一、山下敬吾の4人だけで通算27期を制している。
歴代棋聖位と挑戦手合
○●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。第1期はトーナメント決勝七番勝負。
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各段戦・全段争覇戦成績
回 | 全段争覇戦 | 九段戦 | 八段戦 | 七段戦 | 六段戦 | 五段戦 | 四段戦 | 三段戦 | 二段戦 | 初段戦 |
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1 | 加藤正夫 | 白石裕 | 加藤正夫 | 小林光一 | 佐藤昌晴 | 宮沢吾朗 | 時本壱 | 王立誠 | 笠井浩二 | 伊藤庸二 |
2 | 林海峰 | 林海峰 | 苑田勇一 | 黒田幸雄 | 佐藤昌晴 | 山城宏 | 新垣武 | 笠井浩二 | 伊藤庸二 | 井上真知子 |
3 | 坂田栄男 | 大竹英雄 | 茅野直彦 | 趙治勲 | 中村秀仁 | 上村陽生 | 王立誠 | 河野征夫 | 土井誠 | 井上真知子 |
4 | 橋本昌二 | 林海峰 | 酒井猛 | 佐藤昌晴 | 金島忠 | 小林覚 | 石橋千濤 | 神田英 | 小松藤夫 | J.カーウィン |
5 | 趙治勲 | 坂田栄男 | 趙治勲 | 福井正明 | 菅野清規 | 新垣武 | 小林健二 | 王銘琬 | 池崎世典 | 新海洋子 |
6 | 小林光一 | 白石裕 | 石田章 | 長谷川直 | 山城宏 | 片岡聡 | 黄孟正 | 王銘琬 | 関和也 | 依田紀基 |
7 | 小林光一 | 牛之浜撮雄 | 羽根泰正 | 佐藤昌晴 | 王立誠 | 神田英 | 今村俊也 | 石倉昇 | 日高敏之 | 鄭銘琦 |
8 | 淡路修三 | 林海峰 | 淡路修三 | 清成哲也 | 新垣武 | 彦坂直人 | 依田紀基 | 森山直棋 | 恩田烈彦 | 横地進 |
9 | 小林覚 | 小林光一 | 川本昇 | 小林覚 | 新垣武 | 趙祥衍 | 石倉昇 | 村松竜一 | 鄭銘琦 | 平野則一 |
10 | (廃止) | 羽根泰正 | 上村陽生 | 宮沢吾郎 | 彦坂直人 | 橋本雄二郎 | 安田泰敏 | 藤沢一就 | 森田道博 | 山田和貴雄 |
11 | 羽根泰正 | 王立誠 | 宮沢吾郎 | 王銘琬 | 石倉昇 | 村松竜一 | 中小野田智巳 | 星野正樹 | 島田義邦 | |
12 | 趙治勲 | 王立誠 | 王銘琬 | 依田紀基 | 小松英樹 | 趙善津 | 西村慶二 | 三村智保 | 奥村靖 | |
13 | 大平修三 | 片岡聡 | 依田紀基 | 小松英樹 | 結城聡 | 山田和貴雄 | 島田義邦 | 松岡秀樹 | 大木啓司 | |
14 | 林海峰 | 今村俊也 | 依田紀基 | 小松英樹 | 円田秀樹 | 篠田秀行 | 揚嘉栄 | 宮崎志摩子 | 小山竜吾 | |
15 | 加藤正夫 | 久島国夫 | 依田紀基 | 結城聡 | 森田道博 | 松岡秀樹 | 井口秀一郎 | 有村比呂司 | 宮崎龍太郎 | |
16 | 大平修三 | 王銘琬 | 森山直棋 | 橋本雄二郎 | 楊嘉源 | 柳時熏 | 有村比呂司 | 関山利道 | 黒滝正憲 | |
17 | 加藤正夫 | 依田紀基 | 小松英樹 | 三村智保 | 中小野田智巳 | 柳時熏 | 加藤充志 | 河野貴至 | 高尾紳路 | |
18 | 王銘琬 | 小県真樹 | 結城聡 | 三村智保 | 矢田直己 | 剣持丈 | 河野貴至 | 高尾紳路 | 河野光樹 | |
19 | 小林覚 | 結城聡 | 森田道博 | 山田規三生 | 剣持丈 | 羽根直樹 | 高尾紳路 | 山下敬吾 | 田原靖史 | |
20 | 加藤正夫 | 結城聡 | 宋光復 | 山田規三生 | 遠藤悦史 | 黒滝正憲 | 溝上知親 | 山下敬吾 | 鈴木嘉倫 | |
21 | 片岡聡 | 趙善津 | 三村智保 | 星野正樹 | 加藤充志 | 溝上知親 | 山下敬吾 | 山田拓自 | 小林泉美 | |
22 | 小林光一 | 結城聡 | 楊嘉源 | 加藤充志 | 中尾準吾 | 蘇耀国 | 鈴木嘉倫 | 金秀俊 | 稲垣陽 | |
23 | 王立誠 | 広江広之 | 大垣雄作 | 秋山次郎 | 山下敬吾 | 古谷裕 | 桑本晋平 | 小林泉美 | 山本賢太郎 | |
24 | 小林覚 | 大垣雄作 | 山田規三生 | 溝上知親 | 蘇耀国 | 金秀俊 | 河合将史 | 張豊猷 | 山本賢太郎 |
参考図書
- 『棋聖決定七番勝負 激闘譜』読売新聞社 1977年―