栗原藩
栗原藩(くりはらはん)は、下総国葛飾郡栗原郷(現在の千葉県船橋市)に存在した藩。
陣屋の場所は不詳であるが、かつて千葉氏・高城氏の支城であった小栗原城[1]及び藩主であった成瀬氏の菩提寺のあった宝成寺[2]の周辺(船橋市西船から本中山一帯)のどこかに存在したものと推定されている。
藩史
徳川家康に古くから仕えた老臣・成瀬正成が小田原征伐後に下総国葛飾郡に4000石を与えられ、栗原郷に入ったことに由来する。栗原郷の中心部であったと推定されている本郷村(現在の西船6丁目から本郷町付近)は元禄期の石高は466石、同じく小栗原村(現在の本中山)が289石、二子村(現在の東中山及び二子町)が360石であったことから、栗原郷の中心部から周辺に広がった現在の船橋市・市川市にまたがるより広い地域を所領としていたと考えられている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦功により甲斐国内に2万石、三河国加茂郡内に1万石を加増されて3万4000石の大名となった。後に老中にも任じられている。慶長16年(1611年)、甲斐国内の2万石は尾張国内に移された。元和2年(1616年)、正成は尾張藩主となった家康の九男・徳川義直の付家老となったため陪臣扱いとされ、所領も尾張国犬山へ移された。その際に、正成の次男・成瀬之成が父の領知のうち下総・三河国内1万4000石を分与され、自身の持つ武蔵国幡羅郡1000石と合わせて栗原藩1万5000石の第2代藩主となる。之成は 徳川秀忠の小姓として大坂の役に参戦しており、藩主就任後も秀忠の命で根来足軽を率いるなど信任が厚かった。元和9年(1623年)にそれまでの功績によって近江国内に1000石の加増を受けて1万6000石の藩主となった。
ところが、寛永11年(1634年)に徳川家光の上洛に従った之成が急逝し、跡を継いだ成瀬之虎が寛永15年(1638年)に早世したため、栗原藩の成瀬氏は無嗣断絶で改易となった。
成瀬氏の菩提寺である宝成寺には、初代正成を含めて3代の藩主の墓がある(ただし、正成の墓の場所は現在では不明となっている)。また、之成の墓には殉死した3名の家臣の遺骨もともに納められている。
歴代藩主
- 成瀬家
譜代。3万4000石→1万5000石→1万6000石。
脚注
- ↑ 小田原征伐後廃城となり、栗原藩では用いられなかったとされているが、栗原郷が成瀬氏以前より重要な拠点とされていたことを示しており、陣屋もその周辺部に置かれたと考えられている。
- ↑ 宝成寺のあった旧本郷村には「屋敷跡」「御蔵下」などという小字があったと伝えられているが、栗原藩陣屋との関連については不明である。
参考文献
- 川村優「栗原藩」(『国史大辞典 4』(1984年、吉川弘文館) ISBN 978-4-642-005043)
- 須田茂『房総諸藩録』(崙書房出版、1998年) ISBN 978-4-845-51053-5
- 『船橋市史 近世編』(船橋市役所、1998年)