松江城

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松江城(まつえじょう)は、島根県松江市殿町にある日本の城。別名・千鳥城。天守が現存し、国の重要文化財に指定されている。城跡は国の史跡に指定されている。この他に日本さくら名所100選都市景観100選に選ばれている。

概要

平山城江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。天守からは宍道湖を眺望できる。天守内部には松江市街のミニチュア模型が展示されている。

現在、指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

歴史・沿革

前史

築城

近現代

  • 1871年(明治4年):廃藩置県により、廃城となる。
  • 1873年(明治6年):廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられすべて撤去された。天守も180円で売却されることとなったが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納めるかたちで買い戻され、保存されることとなる[1][2]
  • 1889年(明治22年):当時の島根県知事、籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織される。
  • 1934年(昭和9年):国の史跡に指定される。
  • 1935年(昭和10年):天守が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定される。
  • 1950年(昭和25年):文化財保護法の施行に伴い、天守は重要文化財に指定される[3]
  • 1950年(昭和25年)6月1日~1955年(昭和30年)3月 - 天守の解体修理が行われた。費用は約5300万円(当時)。
  • 1960年(昭和35年):本丸一ノ門と南多聞の一部を復元。
  • 1992年(平成4年):都市景観100選に選ばれる。
  • 1994年(平成6年):三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元。
  • 2000年(平成12年):二の丸南櫓と塀(40メートル)を復元。
  • 2001年(平成13年):二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87メートル)を復元。
  • 2006年(平成18年)4月6日:日本100名城(64番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)4月~2011年(平成23年)12月 - 「松江開府400年祭」が行われた。

縄張り・作事

ファイル:Matsue-Castle1.jpg
本丸一ノ門正面

軍学者小瀬甫庵、土木職人の稲葉覚之丞らが設計に携わった。

松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

天守

天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけている。意匠は下見板張りで桃山文化様式である。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30メートル(天守台上よりは22.4メートル)ある。2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としている。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例である。最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m[4]。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直された物で、旧鯱は保管展示されている。

城下町

亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、現在松江北高校のある赤山との間には宇賀山と呼ばれる丘陵があった。本丸北側の内堀開削は宇賀山を開削する大工事となり、大量に出た土砂は城下の整備に利用された。

松江城のある大橋川以北の島根郡側では、殿町・母衣町・田町・内中原町・外中原町などが武家屋敷地、京橋川以南の末次が町人地に割り当てられた。大橋川以南の意宇郡側では、白潟が町人地と寺町に割り当てられ、松平氏時代になると天神川以南の津田街道(山陰道)沿いに足軽町(雑賀町)が建設された。

その他

人柱伝説

  • 天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。
  • 天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである[5]
    • これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。[6]

国宝指定に向けて

昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。松江市長(2012年10月現在)の松浦正敬が松江城の国宝化も公約に掲げて2期目に当選した平成21年以降は、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」を立ち上げるなど、国宝化に向けての調査・運動が活発化している[7]

復元事業

1960年(昭和35年)に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元され、1994年(平成6年)に三の丸と二の丸を結ぶ廊下門と二の丸下段の北惣門橋が復元された。二の丸の建造物として、2000年(平成12年)2月に南櫓と塀の一部(40メートル)、2001年(平成13年)2月には中櫓・太鼓櫓と塀の一部(87メートル)が、それぞれ復元された。

さらに松江市では大手門復元に向けて懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探している[8]

城跡内にある施設

観光

  • 堀川めぐり - 遊覧船で堀を周回し観光する。3箇所から乗船でき、2つのコースがある。3.7kmを約50分間で遊覧する。
  • 観光ガイド - 松江城を中心に周辺を回る5コースがある。
  • レンタサイクル

周辺

参考文献

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. 松江城ホームページ「松江城の歴史」
  2. 学習研究社編『【決定版】図説 国宝の城』学習研究社 2010年
  3. 格下げではなく、旧法(国宝保存法)の廃止と新法(文化財保護法)の施行に伴うものである。
  4. 現存天守で最大の鯱鉾:山陰中央新報
  5. 新人物往来社編『CG復元 よみがえる天守』新人物往来社 2001年
  6. 川口素生「名城伝説事典」新人物往来社編『別冊歴史読本 24 日本の名城総覧』新人物往来社 1999年
  7. 松江城国宝化をめぐる経過(松江市議会PDF)
  8. 松江城大手門復元資料を募集します