東青山駅
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東青山駅(ひがしあおやまえき)は、三重県津市白山町上ノ村にある、近畿日本鉄道(近鉄)大阪線の駅である。
駅構造
島式ホーム2面4線を持つ待避・折返可能な駅。ホーム有効長は8両。盛土上の高架駅で北側にある駅舎の正面は「東青山四季のさと」という公園である。
通常は無人駅であるが、駅員そのものは下りホーム上の事務所に常駐している。改札口は1ヶ所のみで、駅舎の駅事務室及び出札窓口は閉鎖されているが、自動券売機が1台設置されている。
- Kintetsu Higashiaoyama station02.JPG
駅構内
- Kintetsu Higashi Aoyama sta 003.jpg
駅前
のりば
1・2 | テンプレート:Color大阪線(下り) | 伊勢中川・鳥羽・賢島・四日市・名古屋方面 |
---|---|---|
3・4 | テンプレート:Color大阪線(上り) | 大阪・奈良・京都・吉野・天理方面 |
- 案内表記は上記のようになっているが、上りホームの案内表記に記載される各箇所へは、大阪上本町駅を除き大和八木駅での乗換が必要となる。
- 内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線である。
- 4番線大阪方はそのまま引き上げ線に繋がっている。当駅折り返し列車はこの引き上げ線を使用して伊勢中川方へ折り返して行く。この引き上げ線の有効長は8両分あるが、普段は2両分しか使用していない。かつては名古屋からの「四季のさと号」や上本町からの「青山高原号」(いずれも臨時急行)の折り返しの際にもこの引き上げ線を使用していた。
特徴
- 伊勢中川駅方面からの普通列車の一部がこの駅で折り返す。上りのこの当駅止り普通列車は後発の大阪上本町駅 - 宇治山田駅間の急行に接続するダイヤになっていることが多い。しかし、下りのこの当駅発普通列車は急行より伊勢中川駅に先着するため、急行が接続するのは名張駅発の普通列車である(ただし、30分以上待たなければならない) 。
- 当駅から伊勢中川駅までは急勾配となる箇所は部分的であるが、当駅から大阪方面は22.8‰ - 33.3‰の急勾配が連続し、距離も非常に長くなるため、抑速ブレーキを備えない車両(名古屋線所属の1000系、1010系、1810系)[1]は当駅から先には入れない。
- この駅以外に列車の待避が可能な駅は青山町駅や伊勢中川駅まで無く、それらの駅まで距離が長いことや、隣の西青山駅までは長大トンネルを通過するために一部の急行と日中の普通列車がこの駅で特急列車を通過待避する場合がある。
- 構内アナウンスは行先や種別の入っていない簡易型の自動放送を採用。したがって、この駅に電車が到着すると、駅員が行先と種別を含めた案内放送を行う。
- PiTaPa・ICOCAは簡易改札機による対応である。ICカード入金機は設置されていない。
- この駅より東が名古屋輸送統括部(旧・名古屋営業局)に属する(実際の区界は西青山駅構内の大阪上本町起点84.048km地点)。
利用状況
「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。
年度 | 一日平均 乗車人員 |
---|---|
1997年 | 158 |
1998年 | 144 |
1999年 | 157 |
2000年 | 128 |
2001年 | 131 |
2002年 | 115 |
2003年 | 115 |
2004年 | 100 |
2005年 | 95 |
2006年 | 82 |
2007年 | 75 |
2008年 | 73 |
2009年 | 68 |
2010年 | 68 |
2011年 | 62 |
2012年 | 54 |
東青山駅の利用状況の変遷を下表に示す[2]。
- 輸送実績(乗車人員)の単位は人であり、年度での総計値を示す。年度間の比較に適したデータである。
- 乗降人員調査結果は任意の1日における値(単位:人)である。調査日の天候・行事等の要因によって変動が大きいので年度間の比較には注意を要する。
- 隣の西青山駅は現在利用客数が最下位であるが、西青山駅が今の場所に移転するまでは当駅の方が利用者が少なかった。
- 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
- 2010年11月9日の乗降人員は71人。
年度別利用状況(東青山駅) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
年 度 | 当駅分輸送実績(乗車人員):人/年度 | 乗降人員調査結果 人/日 |
特 記 事 項 | ||||
通勤定期 | 通学定期 | 定期外 | 合 計 | 調査日 | 調査結果 | ||
1950年(昭和25年) | 11,730 | ←←←← | 12,420 | 24,150 | |||
1951年(昭和26年) | 16,320 | ←←←← | 12,888 | 29,208 | |||
1952年(昭和27年) | 20,550 | ←←←← | 18,631 | 39,181 | |||
1953年(昭和28年) | 11,460 | ←←←← | 20,948 | 32,408 | |||
1954年(昭和29年) | 11,340 | ←←←← | 22,633 | 33,973 | |||
1955年(昭和30年) | 9,960 | ←←←← | 34,538 | 44,498 | |||
1956年(昭和31年) | 9,960 | ←←←← | 39,049 | 49,009 | |||
1957年(昭和32年) | 8,220 | ←←←← | 36,727 | 44,947 | |||
1958年(昭和33年) | 8,670 | ←←←← | 37,930 | 46,600 | |||
1959年(昭和34年) | 13,170 | ←←←← | 34,217 | 47,387 | |||
1960年(昭和35年) | 9,090 | ←←←← | 44,257 | 53,347 | |||
1961年(昭和36年) | 6,690 | ←←←← | 54,202 | 60,892 | |||
1962年(昭和37年) | 15,900 | ←←←← | 66,525 | 82,425 | |||
1963年(昭和38年) | 10,440 | ←←←← | 57,796 | 68,236 | |||
1964年(昭和39年) | 9,360 | ←←←← | 61,378 | 70,738 | |||
1965年(昭和40年) | 5,130 | ←←←← | 55,569 | 60,699 | |||
1966年(昭和41年) | 8,100 | ←←←← | 57,934 | 66,034 | |||
1967年(昭和42年) | 6,000 | ←←←← | 58,975 | 64,975 | |||
1968年(昭和43年) | 1,290 | ←←←← | 58,329 | 59,619 | |||
1969年(昭和44年) | 1,740 | ←←←← | 66,783 | 68,523 | |||
1970年(昭和45年) | 780 | ←←←← | 55,462 | 56,242 | |||
1971年(昭和46年) | 2,370 | ←←←← | 50,615 | 52,985 | |||
1972年(昭和47年) | 570 | ←←←← | 46,145 | 46,715 | |||
1973年(昭和48年) | 1,020 | ←←←← | 34,707 | 35,727 | |||
1974年(昭和49年) | 480 | ←←←← | 35,531 | 36,011 | |||
1975年(昭和50年) | 720 | ←←←← | 28,529 | 29,249 | |||
1976年(昭和51年) | 8,970 | ←←←← | 19,873 | 28,843 | |||
1977年(昭和52年) | 9,240 | ←←←← | 20,999 | 30,239 | |||
1978年(昭和53年) | 10,710 | ←←←← | 19,999 | 30,709 | |||
1979年(昭和54年) | 16,500 | ←←←← | 25,713 | 42,213 | |||
1980年(昭和55年) | 24,060 | ←←←← | 23,441 | 47,501 | |||
1981年(昭和56年) | 26,610 | ←←←← | 20,989 | 47,599 | |||
1982年(昭和57年) | 25,590 | ←←←← | 23,412 | 49,002 | 11月16日 | 140 | |
1983年(昭和58年) | 22,980 | ←←←← | 56,628 | 79,608 | 11月8日 | 290 | |
1984年(昭和59年) | 21,540 | ←←←← | 54,950 | 76,490 | 11月6日 | 254 | |
1985年(昭和60年) | 20,940 | ←←←← | 58,597 | 79,537 | 11月12日 | 201 | |
1986年(昭和61年) | 16,530 | ←←←← | 57,836 | 74,366 | 11月11日 | 234 | |
1987年(昭和62年) | 15,930 | ←←←← | 58,650 | 74,580 | 11月10日 | 520 | |
1988年(昭和63年) | 15,570 | ←←←← | 62,363 | 77,933 | 11月8日 | 193 | |
1989年(平成元年) | 14,040 | ←←←← | 60,760 | 74,800 | 11月14日 | 665 | |
1990年(平成2年) | 15,360 | ←←←← | 59,603 | 74,963 | 11月6日 | 707 | |
1991年(平成3年) | 20,400 | ←←←← | 58,549 | 78,949 | |||
1992年(平成4年) | 17,730 | ←←←← | 61,978 | 79,708 | 11月10日 | 269 | |
1993年(平成5年) | 17,100 | ←←←← | 54,585 | 71,685 | |||
1994年(平成6年) | 18,690 | ←←←← | 50,365 | 69,055 | |||
1995年(平成7年) | 20,100 | ←←←← | 49,001 | 69,101 | 12月5日 | 143 | |
1996年(平成8年) | 19,860 | ←←←← | 49,429 | 69,289 | |||
1997年(平成9年) | 14,100 | ←←←← | 43,445 | 57,545 | |||
1998年(平成10年) | 11,100 | ←←←← | 41,636 | 52,736 | |||
1999年(平成11年) | 11,880 | ←←←← | 45,747 | 57,627 | 11月10日 | 720 | |
2000年(平成12年) | 12,060 | ←←←← | 34,639 | 46,699 | |||
2001年(平成13年) | 11,520 | ←←←← | 36,474 | 47,994 | |||
2002年(平成14年) | 9,630 | ←←←← | 32,279 | 41,909 | |||
2003年(平成15年) | 10,020 | ←←←← | 32,251 | 42,271 | |||
2004年(平成16年) | 9,030 | ←←←← | 27,602 | 36,632 | |||
2005年(平成17年) | 7,980 | ←←←← | 26,562 | 34,542 | 11月8日 | 162 | |
2006年(平成18年) | 6,540 | ←←←← | 23,256 | 29,796 | |||
2007年(平成19年) | 4,500 | ←←←← | 22,806 | 27,306 | |||
2008年(平成20年) | ←←←← | 11月18日 | 243 | ||||
2009年(平成21年) | ←←←← | ||||||
2010年(平成22年) | ←←←← | 11月9日 | 71 |
駅周辺
歴史
- 1930年(昭和5年)12月20日 - 参宮急行電鉄の阿保(現・青山町) - 佐田(現・榊原温泉口)間開通時に開業。
- 1941年(昭和16年)3月15日 - 大阪電気軌道との会社合併により、関西急行鉄道の駅となる。
- 1944年(昭和19年)6月1日 - 会社合併により近畿日本鉄道の駅となる。
- 1971年(昭和46年)10月25日 - 当駅(旧駅時代) - 榊原温泉口駅間の総谷トンネル内で列車衝突事故(近鉄大阪線列車衝突事故)発生。
- 1975年(昭和50年)11月22日 - 三軒家信号所(伊賀上津の中川寄りに存在) - 垣内信号所(垣内東信号所・垣内西信号所の総称。榊原温泉口の名張寄りに存在)間が複線の新線に切り替え。旧東青山駅前後の区間は地すべり地帯であったため新線ではトンネルになった。これに伴い現在の位置に移転。
- 2002年(平成14年)頃 - 当駅が無人化となる。
- 2007年(平成19年)4月1日 - PiTaPa使用開始。
- 2009年(平成21年)2月27日 - 当駅付近で普通列車が脱線(東青山駅構内脱線事故)。
- 2012年(平成24年)3月20日 - 前日まで停車していた快速急行が通過となる(同時に区間快速急行が廃止。日中の急行は従来通り停車)。
隣の駅
- 近畿日本鉄道
- 大阪線
- テンプレート:Color快速急行
- 通過
- テンプレート:Color急行・テンプレート:Color普通
- テンプレート:Color快速急行
- ※ 西青山駅との駅間距離(営業キロ)は 7.7km で、2013年3月17日現在、同社の鉄道路線では最長となている。