東寺
テンプレート:JIS2004 テンプレート:日本の寺院 東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。
東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
目次
寺号
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある[1]。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある[2]。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。
「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった[3]。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称には一切見えず、すべて「東寺」である[4]。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240年)である[5]。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。
本項では以下、「東寺」の表記を用いる。
歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」[6]という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
伽藍
金堂
国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任にあたった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
- 木造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財) - 金堂本尊。中尊の像高2.88メートル、台座と光背を含めた総高は10メートルに達する巨像で、中尊の光背には七仏薬師像を配している。台座の懸裳の下には薬師如来の眷属である十二神将像が配されている。仏師康正の作で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。薬師如来像が左手に薬壺を持たず、坐法が左脚を上にする降魔坐である点、台座を古風な裳懸座とする点などに復古的要素が伺える。
講堂
重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏(重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。これら21体の仏像の表す具体的意味について、かつては仁王経に基づく羯磨曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法とを融合したものとも説かれるが、空海の真意が何であったかについてはさまざまな解釈があり、定説をみない。
- 五仏坐像(重要文化財) - 金剛界大日如来を中心とし、周囲に宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿閦如来を配す。大日如来像は明応6年(1497年)、仏師康珍の作。宝生如来、不空成就如来、阿閦如来の各像は江戸時代の作で、阿弥陀如来像は頭部のみ平安時代の古像のものを流用し、体部は江戸時代の作である。「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財に指定され、大日如来以外の4躯は重要文化財の附(つけたり)指定とされている。
- 五大菩薩坐像(国宝) - 金剛波羅蜜菩薩(金剛波羅蜜多菩薩とも)を中心に、周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩埵の各像を配す。中尊の金剛波羅蜜菩薩像は江戸時代の作。他の4体は後世の補修が多いが、当初像である。一木造に乾漆を併用し、作風・技法ともに奈良時代風が強い。金剛波羅蜜像を除く4躯が「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定され、金剛波羅蜜像は国宝の附(つけたり)指定とされている。
- 五大明王像(国宝) - 不動明王像を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王像を配す。東寺御影堂の不動明王像とともに、明王像としては日本最古の作例である。
- 梵天坐像・帝釈天半跏像(国宝) - 梵天像は法隆寺などにある奈良時代の像と異なり、4面4臂の密教像であり、4羽の鵞鳥が支える蓮華座上に坐す。帝釈天像は甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。
- 四天王立像(国宝) - 4体のうち持国天像は表情に怒りをあらわにし、激しい動きを見せるが、他の3体の表現は抑制されている。多聞天像は後補部分が多いが、修理の際に後世の彩色を除去したところ、面部などは当初部分が良好に保存されていることが確認された[7]。
食堂(じきどう)
講堂の後方、境内の北寄りに建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、昭和40年(1965年)から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。
五重塔
国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。
初重内部の安置仏像は以下のとおり(菩薩像の像名は寺伝による)[8]。
- 東面 - 阿閦如来、弥勒菩薩、金剛蔵菩薩
- 南面 - 宝生如来、除蓋障菩薩、虚空蔵菩薩
- 西面 - 阿弥陀如来、文殊菩薩、観音菩薩
- 北面 - 不空成就如来、普賢菩薩、地蔵菩薩
御影堂
国宝。かつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。昭和33年(1958年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。当初の堂は康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1つである。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。
その他の堂宇
- 毘沙門堂
- 御影堂の南側にある。かつて羅城門の上層にあった、兜跋毘沙門天像を安置するために建てられた。兜跋毘沙門天(国宝)は現在宝物館に収蔵。京都の都七福神(毘沙門天)である。
- 灌頂院(重要文化財)
- 境内南西隅に位置する。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。床は石畳になっており、土足厳禁となっている。
- 宝蔵(重要文化財)
- 拝観入口の慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建つ。平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫で、東寺最古の建造物である。
- 鎮守八幡宮
- 南大門を入った左側にある。明治元年(1868年)に焼失後、1世紀以上を経た平成4年(1992年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。
- 南大門(重要文化財)
- 明治28年(1895年)、三十三間堂の西門を移築したもの。九条通り(九条大路)に面しており、京阪国道口交差点から東へ約100mの場所にある。
- 蓮花門(国宝)
- 鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側、壬生通りに面して建つ。
- 小子房
- 昭和9年(1934年)に再建されたもの。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。小子房の西の門は蓮華門と呼ばれ国宝である。
- 太元堂
- 北大門を出た右側にある。鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る。大元帥明王は憤怒の形相であるといわれている。
- 弁天堂
- 北大門を出た右側にある。音楽・技芸・財産を司るという弁才天を祀る。
- 東寺宝物館
- 北大門を出た左側にある。春や秋の観光シーズンなどに、普段公開しない寺宝を展示する。
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御影堂(大師堂)北面
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御影堂(大師堂)南面
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宝蔵
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五重塔
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慶賀門
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南大門
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北大門
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北総門
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灌頂院東門
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灌頂院北門
塔頭
- 観智院
- 北大門を出て櫛笥(くしげ)小路を進んだ右側に位置する。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。学僧であった杲宝を1世として延文4年(1359年)[9]に子院として創建された。杲宝は現在国宝となっている「東宝記」という東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成された。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。通常非公開であるが、春秋などに特別公開される場合がある。
- 宝菩提院
- 弘安2年(1279年)創建と伝えられる。櫛笥小路沿いの、観智院の北側にある塔頭である。別格本山となっている。もとは観智院と櫛笥小路をはさんで東西対称に建てられていたが、明治14年(1881年)「総黌」(そうこう)開学に伴い現在地に移転した。総黌は現在洛南高等学校となっている。観智院の道をはさんで向かい側には、宝菩提院の正門であった古い本瓦葺きの門がある。
関連施設
北大門を出て櫛笥小路を進んだ左側に、洛南高等学校・附属中学校がある。
文化財
史跡
境内が「教王護国寺境内」として国の史跡に指定されている。
国宝
(建造物)
(絵画)
- 絹本著色真言七祖像(絵画) - 真言宗の祖師7人の肖像画。7幅のうち5幅は空海が唐から持ち帰ったもので、損傷甚大とはいえ、唐時代絵画の数少ない遺品としてきわめて貴重。
- 絹本著色五大尊像 - 宮中で正月の8日から14日までの間行われた後七日御修法(ごしちにちのみしほ:天皇の健康を祈る密教の修法)の際に道場に掛けられた仏画。平安後期の作。
- 絹本著色両界曼荼羅(伝・真言院曼荼羅) - 日本に伝わる両界曼荼羅のうち、もっとも著名なもの。鮮烈な色彩とインド風の濃い諸仏の官能的な肢体のが特色。「西院曼荼羅」とも称する。平安初期、9世紀の作。
- 絹本著色十二天像 六曲屏風一双 - 鎌倉時代、宅磨派の作。
(彫刻)
- 木造五大菩薩坐像 4躯(金剛薩埵・金剛法・金剛宝・金剛業)附 木造金剛波羅蜜菩薩坐像 - 講堂安置
- 木造五大明王像(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王 の5躯) - 講堂安置
- 木造梵天・帝釈天像 - 講堂安置
- 木造四天王立像 - 講堂安置
- 木造不動明王坐像・天蓋 - 大師堂(御影堂)安置
- 木造弘法大師坐像(康勝作) - 大師堂(御影堂)安置
- 木造兜跋毘沙門天立像 - 像高189.4cm。もと平安京の羅城門楼上に安置されていた像。天元3年(980年)羅城門が倒壊したとき、何者かによって、瓦礫の中から掘りだされ、東寺に運ばれたという。使われている木は、中国産の魏氏桜桃である。中国・唐時代の作。宝物館に安置。
- 木造僧形八幡神坐像1躯、女神坐像2躯、附・武内宿禰坐像 - 鎮守八幡宮安置。平安初期の作。日本の神像の最古作の1つ。
(工芸品)
- 密教法具 - 唐時代制作の仏具一式。空海の請来品。
- 犍陀穀糸袈裟・横被(けんだこくし けさ・おうひ) - 唐時代の染織工芸品。空海の請来品。
- 海賦蒔絵袈裟箱(かいぶまきえ けさばこ) - 平安初期の漆工芸品。上記袈裟を収納するためのもの。
- 紫檀塗螺鈿金銅荘舎利輦(したんぬりらでんこんどうそう しゃりれん) - 舎利会(しゃりえ:仏陀の遺骨をたたえる年中行事)で用いるもので、神社の神輿に似ている。「紫檀塗螺鈿金銅荘」とは、黒漆塗に朱漆で木目を描き(紫檀塗)、螺鈿(貝殻を用いた装飾)と金銅(銅に金メッキしたもの)で飾ったという意味である。
(書跡・典籍、古文書)
- 弘法大師筆尺牘(風信帖)(こうぼうだいしひつせきとく・ふうしんじょう) - 「尺牘」とは漢文体の手紙のこと。空海自筆の手紙3通を巻物に仕立てたもので、日本書道史上きわめて貴重な作品である。1通目の手紙(最澄あて)の冒頭の「風信雲書」という句にちなんで「風信帖」と通称される。
- 弘法大師請来目録 - 空海が唐から持ち帰った品の目録で、筆者は最澄である。
- 後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(ごうだてんのうしんかん とうじこうりゅうじょうじょうことがき おんそえじょう) - 「宸翰」は「天皇の自筆」の意。弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年に東寺の発展を願って書き記したもの。
- 東宝記 - 南北朝から室町時代に成立した、東寺の公式記録書。
重要文化財
(建造物)
- 講堂
- 慶賀門
- 東大門
- 南大門
- 北大門
- 北総門
- 宝蔵
- 灌頂院、同北門、同東門
- 五重小塔
(絵画)
- 絹本著色十一面観音像
- 絹本著色不空羂索観音像
- 絹本著色両界曼荼羅図4点(甲本、乙本、永仁本、元禄本)
- 絹本著色両界曼荼羅図(敷曼荼羅)
- 紙本著色弘法大師行状絵詞 12巻
- 紙本墨画蘇悉地儀軌契印図(伝宗叡請来)
- 紙本墨画胎蔵曼荼羅略記
- 密教図像10点(火羅図 1幅、仁王経法本尊像 5幅、聖天像 1幅、大元帥明王像(六面八臀像)1幅、大元帥明王像(六面八臀像)1幅、大元帥明王像(四面八臀像)1幅、 大元帥曼荼羅図(十八面三十六臀像)1幅、大元帥曼荼羅図(四面八臀像)1幅、請雨経曼荼羅図 1幅、六大黒天像 1幅)
(彫刻)
- 木造薬師如来及両脇侍像(金堂安置)(薬師如来像台座下に十二神将像がある)
- 木造大日如来坐像、附・金剛界四仏坐像(講堂安置)
- 木造千手観音立像(旧食堂本尊)
- 木造聖僧文殊(しょうそうもんじゅ)坐像(旧食堂安置)
- 木造地蔵菩薩立像(旧食堂安置)
- 木造観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)
- 木造獅子(仏像台座の一部)
- 木造五大虚空蔵菩薩像(伝恵運将来)(所在観智院)
(工芸品)
- 鈸子(ばっし)一対
- 金銅大鋺2口・金銅鋺7口・金銅皿5枚・金銅鋺蓋8枚
- 金銅舎利塔
- 金銅鉢 5口
- 金銅羯磨 4口
- 刻文脇息
- 漆皮箱
- 水精念珠
- 法会所用具類(ほうえ しょようぐるい) - 舞楽水引 残欠共6枚、蛮絵袍 5領、舎利会装束(大帷6領、袴4腰、大口3腰)、舎利会散花机前垂(赤蓮華文錦) 1枚、奚婁(けいろ)1口、鼗(ふりつづみ)1口、羯鼓(台付)1口、 鼓胴(皮各2枚付)2口、鉦鼓 1口、木履 5両、十二天持物 13本、竜頭 9頭、行道面 11面、附:舞装束箱 1口、法会所用具箱 2合・1口、太鼓皮 2枚、舎利会装束残欠 一括
- 木造彩色大壇
(書跡・典籍、古文書)
- 絹本著色弘法大師像 画賛(伝後宇多院宸翰)あり(談義本尊)
- 悉曇蔵 巻三、巻八
- 宋版一切経(うち和刻本7帖、補写本18帖)6,087帖
- 宋版大般若経(うち補写本9帖)642帖
- 大般若経 597巻
- 大般若経(神泉苑寄進経)587帖
- 大仏頂陀羅尼
- 仏説灌頂経 12帖
- 本朝明匠略伝 下
- 東寺観智院聖教類(しょうぎょうるい) 15,402件
- 弘法大師遺告(絹本)
- 後醍醐天皇塔供養御願文
- 舎利奉請文 後光厳院宸翰
- 舎利奉請誡文 後醍醐院宸翰
- 庄園敷地施入状 後宇多院宸翰 2巻
- 東寺文書(六芸之部) 91巻
- 東寺学衆方評定引付 101冊
(歴史資料)
- 東寺御影堂牛玉宝印板木
(考古資料)
- 平安京古瓦 3箇
東寺旧蔵の国宝・重要文化財
以下は東寺旧蔵で第二次大戦後に寺の所有を離れた国宝・重要文化財である(国宝・重要文化財指定後に寺を離れたものに限る)[10]。
(国宝)
- 絹本著色十二天像 12幅(京都国立博物館蔵) - 平安後期の色彩華麗な仏画。
- 絹本著色山水屏風(せんずいびょうぶ)(京都国立博物館蔵) - 密教の儀式の際、道場に立てられた屏風。平安後期。
- 牛皮華鬘(ごひけまん)(奈良国立博物館蔵)
- 後宇多院宸記(国立歴史民俗博物館蔵)
- 三宝絵詞(東京国立博物館蔵)
- 入唐求法巡礼行記(岐阜県・法人蔵) - 円仁著の写本。
- 類聚名義抄(天理大学蔵・天理大学附属天理図書館保管)
(重要文化財)
- (京都国立博物館蔵)木造十二天面 7面
- (奈良国立博物館蔵)七大寺日記
- (国立歴史民俗博物館蔵)後醍醐院消息
- (MOA美術館蔵)絹本著色求聞持曼荼羅図、絹本著色童子経曼荼羅図、諸尊図像、伝法正宗定祖図、九曜星図像、仁王経法図像、太元明王図像、白描曼荼羅集、星曼荼羅図残欠、白銅水瓶、彩絵曲物笥、黒漆螺鈿礼盤、雑伎彩絵唐櫃
- (天理大学附属天理図書館蔵)古文尚書巻第十一、世俗諺文上巻、類聚三代格巻第三、作文大躰、古文孝経、蒙求 康永四年書写、蒙求 建永元年及建保六年奥書、文選巻第廿六
- (岐阜・法人蔵)絹本著色閻魔天像、絹本著色愛染明王像、絹本著色宝楼閣曼荼羅図、雲龍図 円山応挙筆、銅造菩薩立像
- (個人蔵)絹本著色仏眼曼荼羅図、絹本著色普賢延命像
指定解除された重要文化財
- 木造四天王立像(旧食堂安置) - 昭和5年(1930年)12月21日の「弘法市(終い弘法)」の日に食堂(じきどう)が失火で焼失した際、内部に安置されていた本尊千手観音立像と四天王像(いずれも旧国宝)も焼損。千手観音像は修復され、旧国宝指定解除はなされなかったが、四天王像は焼損の程度が大きかったため修復不可能と判断され指定解除された。この四天王像は表面が黒焦げ状態にはなっているものの、像の概形は残っている。平成5年(1993年)から合成樹脂注入による表面の硬化が行われ、現在は再建された食堂に安置されている。像高3mを越える日本でも最大級の四天王像である。西村公朝によれば現在の技術であれば修復し文化財の再指定が可能という。
東寺伝来文書
東寺伝来の文書群のうち、下記が国宝・重要文化財に指定されている。東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)以下3件は第二次大戦後に京都府及び京都大学に譲渡されたもの。滋賀県所有分は江戸時代に流出したものである。
- 東寺百合文書(京都府立総合資料館蔵、国宝)
- 東寺観智院伝来文書典籍類(京都府立総合資料館蔵、重要文化財)
- 教王護国寺文書(京都大学蔵、重要文化財)
- 東寺文書(滋賀県立琵琶湖博物館蔵、重要文化財)
弘法市
毎月21日は弘法大師の縁日とされ「弘法市」が開かれる。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。
脚注
- ↑ たとえば、平凡社『世界大百科事典』、小学館『日本大百科全書』は「東寺」、『ブリタニカ国際大百科事典』は「教王護国寺」を見出し語とする。
- ↑ 「大師のみてら 東寺」教王護国寺
- ↑ このことは、たとえば平凡社『世界大百科事典』の「東寺」の項に明記されている。『芸術新潮』547号(1995年7月)特集「東寺よ開け!」 には、編集部からの問いに対する東寺の回答という形で、「教王護国寺という名称は1,200年間ほとんど使われず、ずっと東寺と呼ばれてきた。」とある。
- ↑ 上島有「東寺の歴史 - 教王護国寺という意識をめぐって - 」(特別展図録『東寺国宝展』朝日新聞社、1995、所収)、p.9
- ↑ 上島有「東寺の歴史 - 教王護国寺という意識をめぐって - 」、p.13
- ↑ 西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の近隣公園・唐橋西寺公園内に史跡西寺跡の碑があり、付近に西寺の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。跡地である公園や小学校の敷地は西寺跡として国の史跡に指定されている。
- ↑ (根立・新見、2011)、pp.73 - 74
- ↑ (根立・新見、2011)、pp.49 - 50
- ↑ 延文3年(1358年)創建という説もある。
- ↑ 文化財保護委員会『指定文化財総合目録 美術工芸品篇』(昭和33年版・昭和43年版)において「教王護国寺」「観智院」「宝菩提院」の所有とされている物件を挙げた。
参考文献
- 「東寺」縁起
- 京都国立博物館、東寺、朝日新聞社編 『東寺国宝展』(特別展図録)、朝日新聞社、1995年。
- 井上靖、塚本善隆監修、司馬遼太郎、鷲尾隆輝著 『古寺巡礼京都1 東寺』 淡交社、1976年。
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』65 - 67号、朝日新聞社、1998年。
- 東寺監修、根立研介・新見康子著『もっと知りたい 東寺の仏たち』、東京美術、2011
- 西村公朝 『仏像は語る』 新潮社
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』 角川書店
- 『国史大辞典』 吉川弘文館
- 特集「東寺よ開け!」『芸術新潮』第46巻第7号、1995年7月。
- 『大師のみてら 東寺』 教王護国寺