忠犬ハチ公

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テンプレート:Infobox 著名な生物のプロフィール

忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)とは、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約9年間のあいだ待ち続けたというである。犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、名前はハチハチ公の愛称でも呼ばれている。

渋谷駅前にはハチの銅像が設置されており、この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。

概要

ハチは、飼い主が死亡した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には像が置かれており、渋谷駅前のハチ公銅像はいつしか待ち合わせの目印として使われるようになり、その銅像周囲は待ち合わせ場所として「ハチ公前」などとして親しまれている。

ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町(現:東京都渋谷区)に住んでいた大学教授・上野英三郎であった。彼は大変な愛犬家であり、出かけるときには渋谷駅までハチを伴うことも多かった[1]。しかしながらハチを飼い始めた翌年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。

上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

さらに、1934年昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除幕式にはハチ自身も参列した。同じく1934年(昭和9年)に尋常小学校2年生の修身の教科書にも、「恩ヲ忘レルナ」というハチの物語が採用された[2]

ハチの銅像は第二次大戦中の資材供出によって破壊されたが、戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印となって立像している[1]

ハチの生涯

生誕

ハチは1923年大正12年)11月10日[3]秋田県北秋田郡二井田村(現・大館市)大子内の斉藤義一宅で誕生した[4]。父犬の名は「オオシナイ(大子内)」、母犬の名は「ゴマ(胡麻)」であった。

上野宅での生活

東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野は秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望があり、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられることになった。ハチの価格は30円(当時)であり、生後間もない1924年(大正13年)1月14日、米俵に入れられて大館駅を出発、急行第702列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着した[5]

上野の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:渋谷区松濤一丁目付近)にあり、ハチは、「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見がよかった。

ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。

上野の死後

ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう[1]。ハチは帰りの遅い主人のことを心配したのか、この後3日間は何も食べなかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとSと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。

その後、ハチは上野の妻、八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのため浅草の高橋千吉(高橋子之吉[1])宅へと移された。しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしく、散歩中渋谷に向かって逸走するなどのことがあるほどだった[1]。さらに、ここでもハチのことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまう。渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住んでいた上野宅出入りの植木職人でハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられる[1]

ハチが代々木富ケ谷の小林宅に移ったのは上野が死亡してから2年余りがたった1927年昭和2年)秋のことであったが、この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。

ハチは小林にもねんごろに愛育されていたのにもかかわらず、上野の死を受け入れられず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返していた[1]。ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の渋谷大向にある旧上野邸に必ず立ち寄って、窓から中を覗いていたという。

忠犬ハチ公

渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となっていた。

一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは東京朝日新聞に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。ハチに付いては翌1933年昭和8年)にも新聞報道されさらに広く知られるようになり[1]、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。

ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった[1]。ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、野犬に噛み付かれた際の後遺症である[6]

ハチの死亡

上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所であった。

ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報が180、200円を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという[7]

ハチは上野と同じ青山霊園に葬られ、その墓は亡き主人の墓のすぐ隣に寄り添うように立てられた。死体は坂本喜一と内弟子の本田晋によって剥製にされ、現在は東京・上野国立科学博物館に所蔵され、幾度となくメディアにも登場している。

ハチの死因

ハチが死亡後、間もなく、死体の病理解剖が上野の勤務先であった東京帝国大学農学部において行われた。

解剖の結果、ハチの心臓肝臓には大量のフィラリアが寄生し、それに伴う腹水が貯留していた。また、の中からは焼き鳥のものと思われる串が3 - 4本見つかっている。

解剖後、ハチの剥製が作成されたが、内臓はホルマリンに漬けられて保存された。これら臓器については2010年平成22年)暮れから検査が行われ、重度のフィラリア症であったことが確認されたとともに、心臓とには重度のも見つかった。この再検査の結果が2011年に発表され、死因としてはフィラリアと癌によるものと結論された[8][9]

ハチの臓器標本は現在、東京大学農学資料館(弥生キャンパス農正門入ってすぐ右)に展示されており、フィラリアが寄生している様子も観察できる。

ハチの剥製

ハチの死体は東京帝国大学で病理解剖後、3月10日に東京科学博物館(現在の国立科学博物館)別館の木工部工作室に届けられ、そこで坂本喜一と内弟子の本田晋によって剥製にされた。

制作者

ハチの剥製の製作は、一般には坂本喜一とされている。坂本喜一は日本の剥製製作の元祖と言われている坂本福治の息子であり「坂本式剥製法」を大成させた人物である。しかし、ハチの剥製製作依頼が来た時、既に坂本は高齢であったため、実際の剥製製作は内弟子の本田晋が担当した。

斉藤弘吉は自書「日本の犬と狼」で、坂本と本田は剥製室内には完成までは一切他の人を入れず2人で籠って製作を行っていたが、自分だけは時々入室した、と記載している。

剥製製作

東京科学博物館に届けられたハチの死体はひどく汚れて臭気も発していたため、まず時間をかけて念入りな洗浄が行われた。ハチは持病のフィラリアがあったため獣医らにより奉仕治療が行われていたが、注射を打つ為に前肢の毛が剃られており、四肢の内側を剥ぐために皮膚の切開を行うと皮膚が浮き上がっていて皮下に貯まっていた注射液が流れ出した。毛が剃られた部分は他の部分から毛が移植された。

垂れた左耳は内側の軟骨部が付け根部分で咬み抜かれており、胃には焼き鳥の串が数本あった[10](東京大学の解剖記録によれば胃の中に折れた串が数本あったが胃壁に刺さってはいなかった)。

製作は石膏で精密な塑像を制作し、その上に毛皮を被せる手法「坂本式剥製法」で作成された。骨格は全て取り除かれているため、残っているのは爪と指骨だけである。剥製が完成したのは6月13日で、本田晋が作成したケースに収められ、2日後の15日に東京科学博物館で開眼式が執り行われた後、一般公開された。

制作者の本田晋86歳時の述懐によれば、ハチ剥製の胴体には後々の事を考えて「いつ死に、いつ作られ、誰が作ったのか」を記載した封筒をこっそり収めた。何万点も剥製を作ってきたが、そんな事をしたのはハチの剥製だけである、と記している[11]

忠犬ハチ公像

当初の銅像

ファイル:Shibuya Station in Pre-war Showa era.JPG
かつての渋谷駅
大正-昭和初期頃

新聞報道によって「忠犬ハチ公」が広く知られるようになった翌年である1933年昭和8年)ごろ、ハチの美談に感動した帝展彫刻審査委員も務める彫塑家・安藤照は、かねてより知り合いであった斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝えた。この結果、日本犬保存会からの依頼によりハチの像が作成されることとなり、上野の死後、1927年(昭和2年)からハチの飼い主となっていた小林菊三郎はモデルとなるハチを連れて代々木富ヶ谷の自宅から初台にある安藤のアトリエまで毎日通った[12]。しかし、安藤がハチ公像を作っている最中、ハチに関する件を全て上野家から託されたと自称する老人が現れ、美術院同人の大内青圃にハチ公木像製作を依頼するための資金集めと称して絵葉書を売り始める事態が発生した。そのため、安藤はそれを阻止する意図でより早く銅像を作らなければならなくなり、ハチが生きているうちに銅像が建てられた経緯がある[13]

1934年(昭和9年)1月には「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作成され、銅像建設の募金が開始された。日本犬保存会が発起した資金集めには、鉄道諸官庁も後援した[1]

同年3月10日午後5時から神宮外苑の日本青年館で、ハチと共に発起人の斉藤弘吉、上野未亡人などが参加した「銅像建設基金募集の夕」が開催され、約3000人がハチを見ようと集まった[14]。その後、同年4月21日には渋谷駅前に「忠犬ハチ公像」が設置され、盛大に行われた銅像の除幕式にはハチ自身と300人もの著名人が参加した。生存中に自らの像が作成・設置されたハチであったが、除幕式の翌年、1935年(昭和10年)3月8日に死亡した。この際、ハチ公像の周囲は花環で埋まり、大勢の人々が集まってハチの死を哀れんだ[15]

しかしながら、この銅像は1944年(昭和19年)10月、戦時の金属供出として撤去・供出されることになった。同年10月12日、ハチ公像では像に日本国旗たすきをかけるなどの「出陣式」が行われた[15]。その後、ハチ公像が実際に溶解されたのは終戦を迎える前日、1945年(昭和20年)8月14日だった。鉄道省浜松工機部(当時)で溶解された像は機関車の部品となり、東海道線を走ることになった。

皇族に献上された臥像

1934年(昭和9年)に照は、良子皇后(後の香淳皇后)が、この美談に感銘を受けたことを聞きおよび、像を献上することを思い立ち、改札前で寝て待つハチをモチーフにした小型のハチの臥像を渋谷駅前に立てられる銅像と同時に作成した。この鋳造の忠犬ハチ公臥像は同年5月10日、斎藤弘吉執筆による「ハチ事跡概要」と併せて、天皇(昭和天皇)、皇后、貞明皇太后に献上された。

照は、この臥像のレプリカを鋳造して所持していたが、戦時の混乱で行方不明となり、1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲で死亡。そののち彼の息子・がその像を足の折れた状態でアトリエから見つけ出した。このレプリカ像は、今日においても士によって保存されている[12]

現在の銅像

戦時中の金属供出によって失われた忠犬ハチ公像であったが、終戦後の1948年(昭和23年)8月、士の制作によって再建された。敗戦後の日本は当時、いまだ連合国軍の占領下にあったものの、忠犬ハチ公の物語は大戦前から外国にも紹介されて知られており、再建にあたっては連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の愛犬家有志も有形無形の力となった[16][17]と伝えられ、この再建像の除幕式には、GHQの代表も参列した。

また再建直後の同年8月30日には、来日した ヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。

ハチ公像建立五十周年にあたる1984年4月8日のハチ公祭りにおいて、東京大学農学部農学資料館に展示されている上野英三郎胸像が特別に運び込まれ、銅像同士の再会を果たす。[18][19]

像が設置されている広場に繋がる渋谷駅の玄関口には、「ハチ公口」という名称がつき、渋谷のスクランブル交差点につながる人通りの多い場所であり、待ち合わせの名所としても知られる。再建当時は駅前広場の中央に鎮座していた忠犬ハチ公像であるが、1989年(平成元年)5月に駅前広場が拡張された際に移動され、同時にそれまでの北向きから東向き(ハチ公口方向)に修正され、駅の出口の方向へハチの顔が向く形となった。

試作像

山形県の藤島町役場(2005年より鶴岡市役所藤島庁舎)には、正体不明のまま保管されていた石膏製の犬の像があったが、これは2006年(平成18年)、地元の薬剤師・高宮宏によって、渋谷駅前に再建された忠犬ハチ公像の試作品であることが明らかにされた。

この石膏像は、再建像を制作した彫刻家、安藤士によって1947年(昭和22年)に制作されたもので、実際の銅像の完成後には藤島町出身の映画制作会社役員の手に渡り、その後持ち主を転々として最終的に藤島町役場に保管されていた。この事実が判明後、鶴岡市役所藤島庁舎はこの像を展示し、一般に公開していた。

2012年6月24日からJR鶴岡駅構内にひな人形展示の時期を除き公開されている(4月15日から翌年の2月15日まで)。

この試作像が見つかった鶴岡市は、忠犬ハチ公を世に知らしめた斎藤弘吉の出身地でもあったことから、これらに関する活動が盛んに行わるようになった。2006年(平成18年)11月3日には、「鶴岡ハチ公像保存会」が設立された。同会はハチ公石膏像の保存や普及、斎藤弘吉の偉業の普及、およびハチの兄弟子孫の調査などを活動内容としており、初代会長には石膏像の出自を明らかにした薬剤師・高宮、副会長には勝木正人、事務局長には黒羽根洋司が就任した。

斉藤による述懐

ハチのことを新聞に投書した斎藤弘吉によれば、駅員や焼き鳥屋にいじめられるハチがかわいそうなので、日本犬の会誌にこのことを書いたが、より多くの人に知ってもらうためにと、朝日新聞に投書したという。斎藤は自著『日本の犬と狼』のなかで、次のように記している。

テンプレート:Quotation

異論

テンプレート:独自研究 この一連の美談に対し異を唱える説も存在している。

哲学者の高橋庄治は当時上野英三郎の近所に住んでおり渋谷駅で待つハチ公も目撃しているが、上野は大学教授という職業柄通勤時刻が不規則な上、ハチも通勤に関係無い時間帯に駅近くをぶらぶらしていた。このハチの習慣を知らない駅員が勝手に忠犬と勘違いした話を、戦時中多用された忠義という言葉の宣伝のために利用されたのではないかと推測している[20]


ハチが毎日のように渋谷駅に現れたのは、駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだったという説もある。

解剖されたハチの死体の胃の中に数本の焼き鳥の串が見られたという事実や、生前のハチを実際に見ている渋谷出身の鉄道紀行作家・宮脇俊三による、ハチが駅周辺の人々から与えられる餌を愛食していたという記述[21]などに基づいている。

一方、実際のハチには、この説と合致しない行動が知られている。

  • 屋台が出ない朝9時にも必ず駅に通っていた - 「ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。しばらくすると戻る。夕方は四時近くなると出かけ戻るのは午後五時過ぎから六時頃であった。 これは、上野が朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった」[10]
  • エサを貰えるようになったのは、駅通いしていた9年間のうち、美談として報道されたのちの有名になった最後の2年間のみであった - それ以前は、駅員や焼き鳥屋、子供など駅周辺の人々から邪険に扱われており、時には暴力を受けるほどであった。
  • 上野に代わった飼い主・小林菊三郎はハチを大切に飼育しており、食事として牛肉を与えていた - ハチが空腹になることは考え難い[10]
  • 渋谷駅では屋台前ではなく、上野が出てくる改札口前に直行して座っていた。

また、ハチ公の美談を世に知らしめた斎藤弘吉は、「有名になるといつの世でも反対派が出るもので、ハチが渋谷駅を離れないのは焼鳥がほしいからだと言いだす者が出た。ハチに限らず犬は焼鳥が一番の好物で、私も小林君もよく買って与えていたが、そのためにハチが駅にいるようになったものでない…」と、自身の著書の中で異論に反対している(斎藤弘吉 『日本の犬と狼』 雪華社)。

関連作品など

映画
  • 『あるぷす大将』 (P.C.L.映画製作所 配給:東和商事映画部 監督:山本嘉次郎、1934年公開) - 渋谷駅前でハチを見た主人公が忠犬ぶりに感心、焼き鳥を与える場面がある
  • ハチ公物語』 (松竹、1987年公開)
  • HACHI 約束の犬』 (アメリカ映画、2009年公開) - 2009年平成21年)7月7日に映画『HACHI 約束の犬』の主演リチャード・ギアが同映画のPRのため渋谷駅前を訪れ 、「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」において、「ついに初めて本当のハチに会えました。今日は本当に幸せで、光栄な気分です」と語り、ハチ公像の首に花輪をかけた。
テレビドラマ
レコード

秋田・大館とハチ

ファイル:Hachiko 20040803.jpg
大館駅前のハチ公像

生後間もなく東京・渋谷の飼い主の元に届けられたハチであるが、秋田県大館市は「ハチ公生誕の地」として、ハチに関連する活動を多く行っている。

当地での活動の始まりは、ハチの死後4か月あまりを経た1935年昭和10年)7月8日、東京・渋谷のハチ公像と同じ型で作られた銅像が大館駅前に設置されたことによる。この銅像も渋谷の銅像と同じく戦時の金属供出によって失われ、1987年(昭和62年)11月にて再建された[22]。このハチ公像は、晩年のハチをモデルとした左耳が垂れたすがたの渋谷のハチ公像とは異なり、両耳とも直立していることを特徴としている。

また、大館駅の構内には1989年平成元年)春、「JRハチ公神社」と称する神社が作られ、発泡スチロール製の全長・全高ともに約2メートルという大型のハチ公像が設置された。これは大館商工会議所が映画『ハチ公物語』(1987年公開)を記念して作成したものであった(交通新聞)。のちに2009年(平成21年)10月14日、全長85センチ、重さ30キロの青銅製(台座・額・由来案内板は十和田石)の「2代目」ハチ公像(高さ85cm、幅40cm、奥行き90cm)に置き換えられ、神社自体も新装となった[22]

さらに、2003年(平成15年)10月12日にはハチの生誕80周年を記念し、市内のハチの生家前に石碑が設置された。また、翌2004年(平成16年)10月には、市内の秋田犬会館前に新たな像、「望郷のハチ公像」が設置された。

その他

芸能事務所・ホリプロ2009年(平成21年)11月9日に、『ホリプロアイドルドック.jp』というウェブサイトを開設したが、ハチ公はそのウェブサイトによって「第1回ベストアイドルドッグ」に認定された[23]。この認定式には、門外不出のハチの剥製が出席し、榊原郁恵が上野の孫に認定証を授与する。

上野の生誕地である三重県津市久居地域では「上野とハチが一対となった銅像」の設置を目的に募金活動を行うなどし、その結果2012年(平成24年)10月に久居駅東口にこの一対になった銅像が完成・20日に除幕式が執り行われた[24]

ハチの孫は、飼い主から盗まれて食べられてしまった[25]

脚注

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参考文献

テンプレート:参照方法

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:外部リンクの方針参照/追跡
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p260-2
  2. 文部省『尋常小学修身書:児童用 巻2』(1934)
  3. 生年月日には、「大正12年12月16日」説もある
  4. 斉藤宅は、元国連事務総長・明石康の母親の実家である
  5. 鉄道ピクトリアル』No.813(2009年1月) p.78 電気車研究会
  6. 「忠犬ハチ公の剥製は僕がつくった」(椎名仙卓著『大正博物館秘話』 論創社、2002年3月
  7. 歴史雑学探偵団編「発見!意外に知らない昭和史―誰かに話したくなるあの日の出来事194  東京書店、2007年7月
  8. ハチ公は「がん」だった 76年ぶり新たな死因判明 東大研究
  9. テンプレート:PDFlink
  10. 10.0 10.1 10.2 林正春『ハチ公文献集』自費出版(非売品)1991年 全国主要図書館に寄贈 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "bunken"が異なる内容で複数回定義されています
  11. 「忠犬ハチ公の剥製は僕がつくった」(椎名仙卓著『大正博物館秘話』 論創社、2002年3月
  12. 12.0 12.1 2010年9月30日放送、テレビ東京「土曜スペシャル:なるほど再発見!明治〜昭和の写真でめぐる東京散歩」内、安藤士・談
  13. 忠犬ハチ公のおはなし
  14. 忠犬ハチ公のおはなし
  15. 15.0 15.1 渋谷図書館郷土資料 『写真集 渋谷の昔と今』 昭和60年3月31日発行(渋谷区立渋谷図書館)
  16. 歴史群像 -学研デジタル歴史館- 「TOKYO銅像マップ」(2012年11月10日閲覧)
  17. 「目撃者が語る日本史の決定的瞬間」 (別冊歴史読本 (新人物往来社))
  18. ハチ公略年譜
  19. 各地で精力的に講演-県内の耕地整理奨励に尽力
  20. 山梨日日新聞 昭和57年1月9日 甲斐犬物語8ハチ公1 教科書には「いつも決まった時間に主人を迎えに行く」とあるが、当時の上野は大学教授だったので、出勤も帰宅も不規則だった。そのころ高橋も渋谷駅を利用していた。しかし、ハチは主人の出勤、帰宅に関係ない時間帯に駅前をぶらぶらしていた。高橋は「ハチ公が駅のまわりをぶらぶらしているのを見て、駅員が勝手に解釈したのではないだろうか」と言う。
    山梨日日新聞 昭和57年1月10日 甲斐犬物語9ハチ公2 高橋者「あまり騒ぐと秋田犬を飼う人におこられるので!」と注釈をつけ「忠犬ハチ公の話はデッチ上げたものだと思う」と結論づける。「ハチ公の話は戦争中、盛んに、”忠義”という言葉が乱用され、ハチ公もその忠義宣伝のために利用された」と分析する。
  21. 宮脇俊三 『時刻表昭和史』 増補版 角川書店 平成9年 ISBN 978-4048834810
  22. 22.0 22.1 交通新聞2010年1月20日報道
  23. 第1回ベストアイドルドッグ
  24. テンプレート:PDFlink - 津市
  25. 渋谷駅『渋谷駅一〇〇年史・忠犬ハチ公五〇年』弘済出版社(1985)