徳川重倫
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テンプレート:基礎情報 武士 徳川 重倫(とくがわ しげのり)は、紀伊紀州藩の第8代藩主。
生涯
延享3年(1746年)2月28日、第7代藩主・徳川宗将の次男として生まれる。幼名は久米之丞、のち岩千代。 宝暦5年(1755年)11月28日、元服して第9代将軍・徳川家重(第5代藩主・第8代将軍・徳川吉宗の長男)の偏諱を受けて重倫を名乗るとともに、従四位下・常陸介に叙任。
明和2年(1765年)、20歳のときに藩主に就任する。30歳のときに隠居、長男・彌之助は既に早世、次男の岩千代(のちの治宝)もまだ幼少であったため、支藩伊予西条藩の藩主であった叔父(宗将の弟)の松平頼淳(改め徳川治貞)に藩主の座を譲った。
晩年は剃髪して太真と号した。文政12年(1829年)6月2日に死去した。享年84。
紀州藩主としての治世は9年11か月であり、この間の江戸参府3回、紀州帰国4回で、紀州在国の通算は2年7か月と短く、さらに幕府より命ぜられた隠居期間は54年4か月と非常に長期となったが、この間の江戸参府と紀州帰国はなかった[1]。
人物・逸話
- 伊勢参りが趣味であったという。
- 性格は徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、家人などに対して刃を振り回したりすることも少なくなく、そのために幕府から登城停止を命じられることも少なくなかったという。
- 『南紀徳川史 第2巻』で薩摩藩島津家がにわかに「大阪城の守備を当家に仰せ付けられたい」と幕府に願書を提出してきたため、慌てた幕閣が御三家に意見を求めたところ、驚いてうろたえるばかりの尾水両家に対し、重倫は大胆にも「それはなかなかおもしろい。早速薩摩守を大阪に入れて、空き城となった鹿児島に拙者が留守番に参る、と上様に申し上げよう」と発言した。それを漏れ聞いた薩摩藩は、間も無く願書を取り下げたとされる。しかし、この伝記は宝暦年間の徳川家重治世中の話(宝暦元年から宝暦10年、隠居時代を含めると宝暦11年の間)としており、当時家督相続をしていない重倫が父の宗将(年代によっては祖父の徳川宗直)を差し置いて幕臣に回答したことになる上、当時の尾張藩主徳川宗勝、水戸藩当主徳川宗翰という面子が驚いてうろたえるばかりだったことになり、正確さに疑念がある。
- 三田村鳶魚の『徳川の家督相続争い』では、明和8年(1771年)に重倫がその年出生した長男の弥之助の生母を斬殺したという話が掲載されている。しかし、『南紀徳川史 第2巻』によると弥之助の生母の慈譲院(伊藤四郎右衛門の娘)は文化2年まで正存しており、弥之助の前に懿姫(一条輝良室)、弥之助出産後に方姫(徳川治紀室)、備姫(前田斉敬婚約者)を出産しており、『徳川の家督相続争い』でのこの話は史実に反している。ちなみに弥之助はその年のうちに夭折した。
官歴
※日付=旧暦
- 1746年(延享3年)2月28日 - 誕生。幼名:久米之丞。のち、岩千代。
- 1755年(宝暦5年)11月28日 - 元服し、将軍徳川家重の偏諱を授かり重倫を名乗る。従四位下・常陸介に叙任。
- 1757年(宝暦7年)12月1日 - 従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。
- 1765年(明和2年)
- 3月29日 - 家督相続し、藩主となる。
- 12月15日 - 参議に補任。
- 1767年(明和4年)12月1日 - 権中納言に転任。
- 1775年(安永4年)2月3日 - 隠居し、剃髪。太真と号する。
- 1829年(文政12年)6月2日 - 薨去。享年84。
脚注
参考文献
- 『南紀徳川史・第2巻』(堀内信、1930年12月28日)
- ↑ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)